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「絶望の国の幸福な若者たち」の著者の最新作。 古市さんは、最近見た「ニッポンのジレンマ」そして 「朝まで生テレビ」に出演しており地味ながらも 的確な言葉は20代とは思えない!と感心した。 こういうしっかりした若い世代が増えている。 とともに、今が幸せだからそれでいい!というだけの 若者たちが増えているのも事実。 古市たちと彼らの間の境界みたいなものはなく、 ある瞬間に今を満足してしまえる環境に甘んじることも可能。 もっとも古市が困難な道に向かおうとしているという意味ではない。 古市は高校からAO入試で慶応SFCに入り ある人の勧めで東大の大学院に進学する。 そこで社会学の研究活動を行いながら、 SFCで知り合った友人3人で会社「ゼント」を運営している。 一緒に会社をやっている友人松島隆太郎という 友人のことについての話から本書はスタートする。 大学時代に好きでやっていたIT関連のことが 人気を呼び外からいろりろな案件を頼まれることになり、 おおがかりな作業も増えたので 会社組織にし起業することになった。 ただ、松島はパートナーの古市ともう1名の3名以上には 会社を大きくすることは考えていない。 必要な時に人が集まり、プロジェクトを行っていく。 仲のいい友人だけの会社の方が気楽だし余計な軋轢は生まれない。 しかもオフィスなども特になく 松島の自宅兼作業場みたいなところに人が集まって 作業するという「トキワ荘」みたいな感じだろうか? 古市ももう1人の友人も同じマンションに住み、 会いたいときはすぐに会いにいける。 そんな環境で仕事をしているのだ。 彼らはそれが自由であり楽しいと感じる。 そして彼らは起業をしたくて起業したのではない。 ただ、頼まれた仕事がおおがかりになったから 起業せざるをえなかったという。 古市は、若者たちにもう一方の 起業をしたいグループがいると説く。 彼らは「起業する」ということが あこがれあるいは目標になっており、 今の自分とは違う私になれるのではという幻想を抱いている。 これはあくまで幻想であって、 若者たちがスポーツ選手になりたいとか アイドルタレントになりたい!というのと同じようなレベルの話なのだ。 そのことを古市は警告し客観的な視点を持つようにと言う。 古市の社会を見る目はクールそのものだ。 実際的で現実主義である。 現在、実際に多様な働き方が出て来ているということに注目し 様々な角度で若者たちの働き方を紹介している。 居酒屋バイトの話も印象的である。 大学生たちは金を稼ぐ手段として居酒屋でバイトする。 しかし、 フリーターとして専業のバイトをしている人たちは 居酒屋バイト集団というコミュニティにすがり安住する。 そこで専業バイト仲間同士がコミュニケーションを取り一緒に 過ごす。 しかし、数年経つとこのままではヤバいと思うのだろう。 辞めて新たな道を模索し始めるらしい。 日本は高度に発達した先進国の文明社会である。 街は清潔で少なくとも普通にしていけば食べていくことが出来る。 若者はそうした環境でたくさんあるように 見える選択肢を前にして逡巡する。 俺は何でも出来るんだ!と思うことが出来る。 それだけ高度な自由がある社会は逆に悩み多き社会でもある。 自分たちで全部を決めて道を切り開いていかなければならない。 その生き方に関して古市は本書でデータなどを駆使しながら紹介していく。 前途洋洋なのかどうかを決めるのは 自分たち自身に係わっているのだということを教えられる。 こうした文章を20代後半で書ける古市の才能に本当に驚き、 かるーい感じで駆け抜けている姿がその文体とともにさわやかだった。 名著です。読みごたえもありとても面白い。 ![]()
宮藤官九郎脚本・監督。宮藤官九郎は今、時の人。 NHKの朝の連続ドラマ小説「あまちゃん」が大ヒットしている。 宮藤ファンとして毎週、録画してあまちゃんを見ている。 宮藤官九郎はいつも家族の話を描く。 「あまちゃん」もそうだが本作でもそう。 表現のアウトプットが違うが扱っている「家族」という話は同じ。 本作では東京の下町の団地に住む「円山家」を描く。 高層のマンモス団地。9号棟の806号室が円山の自宅である。 中学2年生の円山は、他の中学生と同じく、 考えていることはくだらないことばかり。 特に思春期ならではの「H」なことばかりを妄想する日々である。 こうしたシチュエーションをどこかで見たなと思った。 「ファンタ」のCMのシリーズがそうだった。 いつもおバカな中学生みたいな男の子たちが妄想する世界を描いたり、 変な学校の先生を描いたりするシリーズが長く続き 世間でも評判になった「くだらない」(ここで「くだらない」は褒め言葉) CMシリーズとなった。 本作では、さらに宮藤官九郎の言葉も加わって 「くだらなさ」の倍増である。 中学生円山は自ら自分のちんちんを咥えたくて「自主トレ」をしている。 毎日数時間、そのトレーニングを行う。 主に前屈を中心とした柔軟体操である。 酢を飲み身体を柔らかくし、そして前屈を中心とした柔軟体操を毎日行っている。 しかし、円山はなかなか目標を達成出来ない。 前屈をしすぎて「ボキッツ」と骨が鳴ると、 その瞬間、中学生円山の想像は拡がっていく。 その想像の世界はまさにファンタの「そうだったらいいのにな」 シリーズそのもの。 綺麗なお姉さん、や、中学の可愛い同級生の女の子、 そして近所に住む人たちを主人公にした物語の1シーンが拡がる。 円山の家族はお父さん(仲村トオル)お母さん(坂井真紀) そして妹の4人家族。団地住まいだけに、円山は妹と 同じ部屋の2段ベッドで寝ている。 とても、リアリティを持った映画で、 現実の生活そのままを撮影したという感じ。 ![]() そこに、新たに登場するのが906号室に住む、草彅剛。 彼は1歳か2歳くらいの子ども男手一つで育てている。 彼の境遇はあとで判明する。 そして、宮藤官九郎は、中学生円山を中心とした「くだらない」世界を 描くだけでは終わらせない。 お父さんやお母さんそして妹のエピソードが並行して語られる。 印象的なのは韓流ドラマファンのお母さんのエピソードと 妹と近所に住む、元ミュージシャンのおじいちゃん(遠藤賢司)とのエピソード。 遠藤の起用は音楽好きの宮藤の趣味がとてもいいカタチで現れ成功した。 草彅の秘密が知れることで映画は「くだらない」世界から 大転換し思いもかけない結末を迎える。 そこにある種の深み創作する宮藤官九郎はやっぱり天才! 「あまちゃん」とはまったく違う描き方で表現した映画ではあるが、 家族をどう描くのか?ということはいつも、宮藤の中でまったくぶれない。 これがさらに多くのファンを引き付けることになるのだろう! プロデューサーの一人に今度フジテレビの社長になった 亀山千広の名前を発見! ![]()
井上ひさし作、鵜山仁演出。 何と、劇場でお土産に山形のお米「つや姫」をもらった! 登場人物は6人。 ある村はずれの一軒家に住む、娘(福田沙紀)。 娘のことが好きな村のお殿様(藤井隆)。 お殿様にいつも付き添っている侍医(小林勝也)。 娘は許婚と結婚する。その夫の権ず(鈴木裕樹)。 二人の間に出来た娘(阿部夏実)そして家来(田代隆秀)。 井上ひさしの初期の戯曲。処女作とある。 この戯曲が「文部省芸術祭脚本奨励賞」を受賞した。 そういえば昨日、新聞を読んでいて 文化庁が芸術文化振興のための予算を近い将来 倍増するという計画があるそうだ。 井上ひさし24歳のとき。昭和33年だったそう。 井上ひさしの舞台だというので3時間以上になるのかな? と思って劇場に行ったら何と上演時間が約80分とあった。 島次郎の絵本のような舞台美術。 書き割りみたいな背景があり 書き割り的な田舎の一軒家がある。 そこに娘が一人で暮らしているところからこの舞台は始まる。 福田沙紀演じる娘は多くを望まずいまの生活に満足している。 朝昼晩と倹約しながら少しだけご飯を食べる事が出来、 夜は縁側を開け放して、夜風にあたりながら風の音を聴き、 そして大の字になって寝る事の出来るスペースがあれば十分だと。 毎年のサクラの花が満開になる時期がアクセントになり舞台は進んでいく。 山形の里山の美しい風景に思いを馳せながら、 東京で働いていた井上ひさしはこの戯曲を書いたのだろう。 そこに、足の悪いお殿様がやってきて娘を嫁にもらおうとするのだが 娘は許婚(いいなずけ)と結婚するといい、うまくいかない。 権力で強引なことをしない、こういうリーダーもいいんじゃないか? 個人的に思った。 娘はその後、結婚し娘をもうける。 夫は病の床に伏せっている。 そこに、またお殿様と侍医がやってくる。 庶民と対話しながら村を治めていくには、 どうあるべきか? という井上ひさしが生涯テーマとした ユートピアについての原初の想いを見るようであった。 お殿様がふられたショックで「うつけ」になり記憶がなくなる? という唐突な設定に少し違和感をもったのだが、 いかがだろうか? 荒唐無稽すぎる?これがのちの 「ひょっこりひょうたん島」につながるのか? ![]()
石川寛監督第3作。宮﨑あおい主演は「好きだ、」に続いて2作目である。 この映画のことが、とても好きな生徒がいて、日曜日の朝、 特別上映がありその後ティーチインという形のイベントがあると教えてくれた。 彼も見に行くというので日曜日、早目に家を出て新宿武蔵野館に向かった。 会場は多くのファンが集まっており120人のキャパの劇場だったが、 僕のもらった整理券番号は108番! 一番前の方しか空いてないかも?と思ったら、 一番前は宮﨑あおいファンでいっぱいだった! 逆に後ろの方が空いているという状況。 ![]() 90分の映画はとてもシンプルな構成。 そこから描き出されるほのかで柔らかいものを どれだけ掬い取れるかが石川監督の映画を見るのには重要。 繊細な少女漫画の断片をみるような世界が拡がる。 石川寛監督の画のトーンというものが確かにある。 淡くて白っぽい光を背景にし女優たちがその中にいる。 女優たちが着ている洋服は中間色なので風景に溶け込む。 そうした構図の中で少し暗部になった女優たちの表情や仕草に注力する。 こういうトーン。 その世界観が最後まで続くので見ていて気持ちがいい。 「やさしさに包まれたなら」というユーミンの曲の中の歌詞があるが まさにそのような感じ、 そしてユーミンの「ひこうき雲」的な物語性と 「ベルベットイースター」的な情景描写がここにある。 宮﨑の友人、安藤サクラと一緒に車を借りて青森の病院に入院している友人の 吹石一恵を見舞に行くというもの。 そこに忽那汐里が絡む。 忽那が宮﨑の勤める、図書館に本を借りに来る。 その後、ある小さな事件が駅のホームで起きる。 その縁で忽那は宮﨑や安藤と一緒に青森の病院まで行くことになる。 吹石は2011年の3月11日に青森の海岸で被災する。 そのときの後遺症で入院しているのかどうかは語られない。 が、でこぼこになった海の桟橋が無言のまま、当時の様子を語る。 静かな静かな映画である。台詞が少ない。 ときどきボソボソっと語るだけ。 しかし、その台詞のひとつひとつが優しさと想いやりに満ちている。 人はどうしたらこんなに優しくなれるのか?と思った。 そうして、この映画は、そのことを大声で語らないまま唐突に終わる。 終映後、宮﨑あおいと石川監督が出て来てのティーチイン。 質問者の目をしっかり見て応える宮﨑さん。 そして真摯に撮影時のエピソードを語る石川さん。 こうした人たちが作っているからこんな映画になったのか! と静かに納得。 終映後、生徒と「青葉」のラーメン。 ![]() ![]()
ある特殊な物語世界を描き、観客をその世界にすーっと引き込み 圧倒的なリアリティを持って描きだすことができる才能。 前川知大はその稀有な才能を持った劇作家であり演出家である。 今回も、いつもの俳優たちとその高度な技に挑戦し、 高いレベルで完成した! 舞台は2008年から2096年の間で描かれる。 折り込みに書かれていたあらすじを引用する。 2008年。アマチュア天文家の二階堂は小さな隕石を拾う。 その隕石は観る者を夢中にさせ、思考を奪い、 恐ろしいほどの幸福感をもたらした。 それから1年後、あらゆる都市に巨大な柱が降り注いだ。 柱は人々にあきれるほどの祝福を与え、静寂のうちに支配した。 2096年。高知県。山間の町。風輪町。柱によって世界は大きく変わった―。 というもの。 ある隕石のカケラあるいは光の柱を見るだけで、 人々はそれに釘付けになり我を忘れ、 その快楽を維持し続け最後には死に至る。 ドパーミンという脳に発生する快楽物質がある。 マウスの実験で、あるボタンを押すとむき出しになった マウスの脳に快楽物質が注入されるという 実験のレポートについての文章を読んだことがある。 そのマウスは、そのボタンを押し続け、 体力がなくなり死に至るまでそのボタンを押し続けたという。 また、猿のフェラチオの逸話も有名だ。 自らフェラチオをすることを覚えた猿は それを何度も何度も続け身体が衰弱するまで辞めなかったという逸話。 この「獣の柱」にはそうした人間を狂わす快楽物質がある。 これは神の業なのか、それとも新たなカタチのテロなのか? まったくいままで人間が経験してこなかった事態に 人間たちはどう対処していくのか?という寓話なのか? 東日本大震災時の福島第一原発は まさにこのような事態だったのか? 想定外の事態に世界はとまどい震える。 今年「巨神兵東京に現る」という短編フィルムを見た。 「エヴァンゲリヲンQ」の映画上映の際に同時上映されたもの。 その世界にも似た光景が観客の想像力の中に拡がる。 「獣の柱」は人口30万以上の都市に落下し、 その都市の人口を結果的に減らしていく。 これは実は、人間の欲望がおこした社会と文明化によって 人口が肥大化したことに対する警鐘なのか? エヴァネンゲリヲン的な終末観が拡がる。 その状況から私たちはどのようにすればいいのか? という少しばかりの希望を2096年の高知県にある田舎の農村が教えてくれる。 日本の江戸時代の人口は3000万人だった。 それ以上のものを地産地消でまかなうには、どうすればいいのか? そうした未来への指針を本作は啓示的に教えてくれる。 地球の人口はもうすぐ100億人を超え、 その100億人が先進国と言われる人々と同じようにたくさんのエネルギーを使い 熱量を消費する時代がやってくる。 それは人間として必然のことでもある。 その世界にどのように向き合っていくのかを問うような 舞台が完成した。6月2日まで。 ![]()
作・演出 櫻井智也。 彼の名前を知ったのは「ブラジル」という劇団の公演だった。 いい俳優だなと思って見ていた。 MCRという劇団に所属しているというのは知っていたが、 櫻井本人が作・演出をしているとは知らなかった。 本作は、芸術とは創作とは? の根源に迫った作品であると言える。 でもその表現は軽く分かりやすく楽しい。 軽い笑いの中から立ち上る表現者(芸術家)の性が時々顔を出す。 その瞬間、ただへらへらと笑っていた僕たちの ココロの深いところをわしづかみにする。そんな舞台。 全席自由席なので出来るだけ前方で 出来るだけ真ん中に席を取り観る事をお勧めする。 舞台は上手と下手の二つに分かれている。 下手は小説家(作家)の部屋、六畳間だろうか? 一番下手に通路があり台所や玄関に通じている。 上手には白い抽象的な空間。学校の教室が主な場所である。 ![]() 諌山という作家(諌山幸治)は下手の和室のちゃぶ台で小説を書いている。 0.9ミリのシャープペンシルに原稿用紙に手書き!というスタイル。 5年間まったく書けなかった男が、 毎日毎日一日中机に向かって小説を書いている。 出版社の担当編集者が来ている。 しかし、その原稿は当面、雑誌などへの掲載などの予定がなく、 編集者もなんとなくそのことをにおわすのだが、 はっきりとした口調で言えない状態のままでいる。 小説家は5年間小説を書いていなかったのでお金がない。 彼の妻(ザンヨウコ)はそのことに対して何も言わない。 男の書いている小説は「愛についての話」。 愛することがわからない男の子の物語である。 男の書く物語が舞台の上手で進行する。 ゆたかという男の子(小野ゆたか)がその 「愛のわからない」男を演じる。 パラドックス定数に所属する小野。 見ていて爆笑問題の太田光に見えてきて仕方がなかった。 彼には昼休みに学校内でセックスをする友人(富永瑞木)がいる。 彼のことが好きな、自称恋人が登場する(津留崎夏子)。 しかし、ゆたかはどちらの女性もココロの底から愛することは 出来ないままでいる。 なぜ、彼は愛することが出来ないのか? しかし、だんだんに彼の気持ちが変化していく。 上手の六畳間で作家の紡いでいる物語が、下手で実際に演じられる。 この二つの世界を交互に描きながら やがて、この二つの異なった世界が融合していくことを感じる。 薄っぺらな「愛」という言葉だけが先走りした世界が ある瞬間リアリティをもった世界になる。 観客は笑いながらもそれを感じ、気持ちが動き始める。 劇場はドッカーンドッカーンという爆笑の渦に巻き込まれながら 人間内面の深みを感じさせるという 何とも難しいことを櫻井は軽々とやり遂げてしまった。 90分。19日夜まで! ![]()
何と、身の引き締まる舞台だろう! この舞台では、制作者(劇作家&演出家&俳優たち)の覚悟が ポーンと観客に投げだされる。 観客はそれを受けきれるかどうか?が問われる。 これは、文学で言うと純文学だ! 例えば、村上春樹の内省した文章をさらに抽象化して呈示する! みたいな? その呈示を、考え続けることによって感じられるか? それとも感覚的にストレートに感じられるか? みたいなことが問われてくる。 僕は前者であり、後者には、どれだけ努力してもなれない。 「これは、どういう意味だろう?」と考え続けながら舞台を見る。 そのことによって何かが少しだけわかり、 わかることによってようやくココロ(感情)が動く。 僕は、こういう見方しかできない。 こういう見方でもたくさん見ていると、 見えてくるものは確かにある。 なぜかそんなことを鑑賞後に感じた。 (何を言いたいかよく分かりませんね。) ファンタジーというジャンルを借りた「イノチ」についてのお話。 劇作家の宮森はいつも「イノチ」について考えているのだろうか? 二騎の会の特徴として必ず、人間の死というものが描かれている。 今回はその描き方がやや抽象的であり ファンタジーの世界であったということ。 その戯曲を多田淳之助がシャープに演出する。 舞台は四方から囲み見下ろす形となっている。 12畳くらいの洋間だろうか? そこには丸いテーブルと四脚の椅子。 窓の傍にも椅子が1脚おかれサイドテーブルがある。 この街は、ずううううううううっと雨が降り続いている。 多田はその空間を奇妙なノイズで埋めていく。 これは雨が降る音とは違うもの。 この街の雨が降る音はこんな音なのか? 不思議な感覚がこの舞台を貫く。 この部屋には女(佐山和泉)が住んでいる。 そこに男(大竹素直)がやってくる。 この男は別の世界からこの雨の街にやってきた。 まるであの世とこの世の中間なのか? 男はこの家に居候しながら女に世話をしてもらっている。 常にお茶が淹れられ提供される。 お茶にはミルクを入れてもいいし入れなくてもいい。 狂言回しのような商人(山内健司)が、時々やってくる。 彼はあちらの世界とこちらの世界をつなぐもの? この街にはお金はない! 商人から品物などを買うことが出来るのだが、 その代償として商人に「自分の時間」を提供する。 女は男にスケッチブックを買ってあげる。 その時に自分の時間を提供するのだ。 自分の時間を提供するとは?寿命を捧げるということなのか? 個々人によって違う寿命を、商人から品物などを買うことによって縮めて行く。 これは、どういう意味なのか? 身につまされ身が引き締まる。 実は、自分の親からこうしたことをされているのではないだろうか? と思った。 そして、今度は僕たちの順番である。 もう一つ、興味深かったのがこの街に居続けるという意味だった。 男は別の街に行こうと女を誘うのだが女はここに留まる。 彼女自身がそれを選んでいるのだ。 これも、一体どういうことか? ということを考えさせてくれる。 旅人(永井秀樹)がこの街にやってきては 彼女の家でお茶をごちそうになる。 無償の供与。 そう、旅人には無償で自分たちの地域で得たものを提供していく。 そんな生き方が、今、また見直され始めているような気がする。 いろんな意味でとても興味深い舞台だった。 多田淳之助の音の使い方が、シャープで恐ろしい! ![]()
今ごろになって、この撮り溜めていたドラマ全10話を一気見した。 是枝監督が震災後に祈りを込めて制作した佳作である。 放送当時視聴率がふるわず、話題になったが、 いやいやものすごくよく出来ている、 視聴質に換算したら視聴率の5倍くらいすごい効果なんじゃないだろうか? これは最早映画である。 丁寧に書かれた脚本を素晴らしいキャストが演じ、 丁寧に丁寧に撮影されている。 是枝映画のスタッフたちが手を抜かずに作っていることがよくわかる。 ![]() そして、主演の阿部寛の職業がCM制作会社のプロデューサーというのもいい。 阿部寛は45歳のベテランCMプロデューサーを演じた。 中年男の哀しみと生きがいが表現されており人ごとで済ませることは出来なかった。 妻の山口智子はクッキングスタイリストの仕事をしている。 実際、本作のクッキングスタイリストは飯島奈美さんがやられている。 料理のシーンが毎回出てくるのだが、 撮影の山崎さんの料理を取るショットが素晴らしい。 ちなみに撮影機材はシネマイオスC-100だそう。 作り手の顔のアップと料理のクローズアップが 交互に出てくるという編集がなされているのだが、 作り手の顔がきちんと見えているものをいただく という原初的な感覚がここにはある。 この原初的な感覚を是枝監督は仕事の仕方や生き方にまで敷衍する。 人が丁寧に作ったものをその人のぬくもりを感じてありがたくいただく。 これって、この感覚って この「ゴーイング マイホーム」そのものではないだろうか? スタッフの大変な努力が映像の中に結集した。 想いが決してそのまま映像として出るわけではない。 このことは、山口智子がそのような台詞を劇中でも言っている。 是枝監督の言葉なのかも知れない。 ![]() 阿部寛の父が長野県で倒れて、長野の病院に入院することから、 阿部と山口の家族関係が少しずつ変化していく。 いきなりドラマチックなことは起きない。 是枝さんの映画「あるいても、あるいても」に似たトーン。 お見舞いに行く、阿部と姉のYOUとその夫、 そして阿部の母親(吉行和子)。 そこに、もう一つの視点が入る。 阿部の娘の視点(蒔田彩珠)。 小学校4年生の女の子は同級生が亡くなった喪失感をぬぐえないでいる。 その痛みが、女の子が長野の里山でいろんなことを経験することで薄れていく。 阿部の父親の小学校からの同級生が、長野の生まれ故郷で歯科医院をやっている。 西田敏行! そして、その歯科医院では「小人伝説」をもとにした 「クーナ」について研究調査する事務局が同居している。 それを運営しているのが娘の宮﨑あおいである。 彼女には小学生の男の子がいる。 夫は数年前に突然姿を消したらしい。 これらの関係が淡々とリアリティを持って描かれる。 家族の会話のシーンなどはまさに普通の家族じゃないか? という演出!どうやって演出するんだろう? というぐらい自然でリアル! YOUの存在は大きいだろうなあ? とにかく傑作です。 見た後とても優しい気持ちになれました。 ![]()
「酒とつまみ」=村岡希美と池谷のぶえの演劇ユニットとある。 このあまりにも個性的すぎる俳優たちが いったいどのような舞台を見せてくれるのか? しかも作・演出はPPPP(ペンギンプルペイルパイルズ)の倉持裕。 豪華なメンバーがOFF・OFFシアターという60人くらいしか入れない 濃密な空間で何をやるのか? 恐ろしい気持ちと怖い気持ちで(どっちも同じですね)見に行った。 同時に本作は、こういう文章が出てくるようなトーンの ふざけた公演でもある。これはほめ言葉。 こんな舞台、なかなかない。 舞台はある街の住宅街の一軒家。 ハトやその他の鳥の鳴き声が聞こえてくる。 旧い一軒家の住宅の6畳ほどの和室。 畳の上には絨毯が敷かれ、丸テーブルがひとつと椅子が三脚置かれている。 普段はテーブルや椅子などの調度品はこの部屋にはなく、 この日のために運びこまれたことがわかる。 この一軒家は村岡希美の家である。 村岡はここで池谷と一緒に住んでいる。 池谷はこの家の居候である。 そういえば「オバケのQ太郎」や「ドラえもん」も居候といえば居候だな? とふと思った。 全体に昭和の香りが漂う。 池谷は、何故ここで居候しているのかがわからないのだが、 もう数年一緒に暮らしている。 そしてこの舞台になった六畳間は池谷の部屋。 この日は、ここに「もうひとり」お客さんがやってくる。 そして実際に訪問客がやってきてこの二人が応対する。 村岡と池谷に共通するのは声のキャラが強いということ。 しかも発声がよく、二人の会話のやり取りを聴いているだけでも気持ちよい、 絶妙な間の取り方と発声の仕方が まるでよくできた交響楽を聴いているような感じになる。 そこに二人の個性的な演技?動き?パフォーマンス?が加わって 舞台を見ている観客たちがどっかんどっかんと沸きかえる。 倉持の書く不条理な設定の中から醸し出されるクールな笑い。 奇妙にねじまがった感覚が倉持ワールドの特徴だ。 「もうひとり」の演出での描き方も興味深い。 観客の想像力を信じ、落語噺のような印象もある。 そして、この奇妙な試みは成功し、 観客たちは笑いながらそして少し怖さを感じながら 劇場を出る事になるだろう。 80分。5月21日まで! ![]()
あの、梅佳世である。 変な子どもたちの写真をたくさん撮り続けている写真家。 休日の朝からたくさんの人が見に来ており、 会場内は笑い声が絶えなかった。 家族連れが多く、いつものオペラシティの展示とは違う雰囲気。 梅佳世はいつも首からカメラをぶらさげており、 シャッターの瞬間を常に狙っている。 オートで撮影することも多いのだろう。 梅佳世は24時間カメラマンである。 これはある種の人には大変なことだろう? 仕事と日常の境界がまったくない。 梅佳世はそれが出来た。 いや本人がそういう生き方をすることが好きなんだろうなあ!と思った。 そこがアマとプロの違いなのかも知れない。 銀座線の車内から反対側のホームの男性を撮影したり、 駅のコインロッカーに集まるお年寄りを 撮影したり出来るのはまさに梅佳世ならでは。 梅佳世は、子どもと犬とお年寄りを撮影するのが好きである。 大半の作品はそういった人々が被写体になっている。 あとは中学校の女の子たちを撮影しているのもいくつかある。 共通しているのは性を超えたものを撮影しているということ。 「色気」とは対極の世界がそこにある。 あっけらかんとした幼児性とでも言うのだろうか? そんな世界が拡がっている。 梅佳世のもう一つの特徴は家族の写真が多いということ。 場合によっては自らも被写体として登場している。 本展覧会で一番印象に残ったのは梅佳世の 石川県に住むおじいちゃんとおばあちゃんのところで撮影し続けた 十年間ほどの写真たち。 クロニクル形式で写真が展示されている。 その十数畳の小部屋には梅佳世の家族に対する愛が詰まっている。 おじいちゃんとおばあちゃん、そして飼っている 白い犬(柴犬?)と妹夫婦たち。 数年前、結婚した妹は妊娠し子どもが出来る。 その数年後おばあちゃんが他界する。 それらのすべてをそーっと見守り続けているおじいちゃん。 そんな世界がここで描かれている。 6月23日まで。 ![]()
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