当日券は多くの若者で賑わっていた。
いつもの演劇を見る層とは明らかに違う人たちが
このパフォーミングアーツを見に来ている。
飴屋法水のファンなんだろうか?
彼がこの春、フェスティバル/トーキョーで演出した
「転校生」(SPAC秋のシーズン2007公演の再演)を見て度肝を抜かれた!
この人はいったい?と。
それから、時間がある限り飴屋法水の名前を見ると行くようになった。
どの公演も一杯なので、彼の人気はいったいどこから出ているのだろう?と考える。
現代アートとも演劇ともダンスとも、その総てなのか?
それを超えてしまったものなのか?
独特の世界を現出させる。
今回の舞台は、サラケインの遺作「4.48サイコシス」。
英国人である彼女は、様々な言葉の羅列を戯曲として残した。
イメージの断片が言葉として紡がれる。
それらの言葉はひりひりと肉体や精神を痛めつける。
どのような精神状態でこのような戯曲を書いたのだろうと思った。
サラケインは本作を書き終えた後、自死する。
春に飴屋が演出した「転校生」が「生」のチカラに満ち満ちたものとすれば、
今回の「4.48サイコシス」は「死」へ向かう強いチカラを感じる舞台となった。
鏡面的にその世界から「生」を浮かび上がらせようとする。
それは生身の言葉、声、身体から繰り出される。
様々な国籍や身体を持った個性の強い俳優たちが
彼女のテキストを、声にして舞台の上に放り出す。
この舞台のことについては飴屋法水自身が、
折込のリーフレットに書いているので引用する。
彼女の書いた
そのめんどくさい言葉たちは、
まだこの世に生きている人の口で、
他人の声で、音、に変換されることを望んでいる。
時に母国語ではない言葉で、
時に、ねじまげらようが、
汚されようが、
それでも、赤の他人にしゃべってもらうことを、
彼女は、希望、したのだろう。
たとえ、まちがった時代に、、
まちがった体で、演じられようが。
この舞台での音の使い方が凄い。
それぞれの俳優の声の特徴、そして喋り方、発声の仕方、
あるものはホーミーのような発声をし、あるものはフロンガス?を含み
アヒルの声のような音で、あるものは外国人の訛りのある日本語で、
日本人が英語で、母国語の英語を母国語とするものが英語で、
そして、そこに様々な音のイメージの断片がつなぎあわされる。
音楽とも効果音ともつかないもの、パーカッションを鳴らす人や、
時々、水をパチャパチャと叩く音や、ピンポン玉が卓球台に落ちてくる音、
天気予報を告げるアナウンス、
それらが渾然一体となって舞台の音を構成するのである。
音響設計&ミキシングはZAK。
そして、舞台美術が、いや舞台のしつらえが独特である。
あうるすぽっとの担当者も驚いたんじゃないだろうか?
観客は舞台上にしつらえられた階段席から、観客席に向かってこの舞台を見る。
舞台と客席が逆転の構造。
舞台と客席を隔てる場所に大きな紅い川が流れている。
様々な驚きが舞台に仕組まれており、
その驚きが現代アートの展覧会へ行ったような、感覚に満ちている。
飴屋法水の今後のますますの活躍を期待する。
ただ、この奇妙な130分間に対峙する心意気も必要。