岩松了作・演出。
スコット・フィッツジェラルドの「ザ・グレート・ギャッツビー」を下敷きにした舞台。
1920年前後のローリング・トゥエンティーズから世界恐慌へ向かう時代、
米国で暮らす日本人たちの群像劇を描いた。
麻生久美子、ARATAは舞台初出演である。
僕は「ザ・グレート・ギャッツビ―」を映画でしか見たことがなかった。
華やかなパーティばかりしているやたらに白いスーツを着た
イケメンの男の物語だな、と思っていた。
そこに隠れた男の思いなどを知ることもなく、
過去に見た映画の中の一つとしてしか認識はなかった。
20代前半という年齢はそんなものだろう。
村上春樹がこの小説が好きだという話は知っていた。
いつか、この「ザ・グレート・ギャッツビー」を翻訳してみたいと語っていたのは
20年以上も前のことだった。
そうして、村上春樹はそのことを実行する。
村上春樹訳の「グレート・ギャッツビー」が出版されたのが2006年の秋だった。
麻生久美子とARATAの新鮮な演技が印象的だった。
ARATAは苦悩する男を演じ、麻生は運命に翻弄される女を演じる。
女は男なしには生きられないのか?
よすがとなるものを得ていないと生きてはいけないのか?
戦争が、彼らの運命をいとも簡単に狂わせていく。
ARATAはその運命に抗い切り開くような生き方をする。
圧倒的な孤独感とともに生きる男の姿が浮かび上がってくる。
夏目漱石の「こころ」を思い出す。
「こころ」は、1914年に書かれた。
フィッツジェラルドが本書を著したのは1925年のことである。
この時代の「失われた感覚」にどこか共通したものを感じる。
その失われた感覚を岩松了が料理した。
岩松了の手にかかると、「ザ・グレート・ギャッツビー」が
チェーホフの戯曲に見えてくる。
その虚無感とともに岩松が描く世界は悲しい道行のようでもある。
「桜の園」や「三人姉妹」にも通ずる虚無感が
この「マレーヒルの幻影」にも反映されていた。
決して、安易に楽しめるだけの舞台ではないが、
その奥底にあるひそやかな味わいがこの舞台を大人の舞台にしてくれる。
TVドラマ「時効警察」で見せる、とぼけた警官と同一人物とは思えないほど
そこで表現されるものは一筋縄ではない。
麻生久美子も同じ意味で「時効警察」とは全く違う印象を見せる。
サッポロビールで大森南朋と共演しているCMがあるが、
そんな贅沢さを秘めていた。
三宅弘城がいい味が出ていて存在感がある。
荒川良々と市川美和子のカップルは、
ARATAと麻生久美子のカップルと対照的に描かれる。
松重豊の立ち姿がいい。
ベストキャスティングの中から生まれた
素晴らしい大人のための舞台となった。