これは現在のロミオとジュリエットなのか?
背反した二項対立を描いておきながら
そのさらに奥にあるどうしようもない現実がつきつけられる。
ルワンダにおける、ツチ族とフツ族の対立。
イスラエルのユダヤ人とパレスチナ人の対立。
中国での漢民族とチベット民族。
さらには、同じ宗教を志向するもの同士の対立。
どの世にも対立構造はあり、その対立構造を
解消することはとても難しい。
ただ、その対立を破ろうとするものも同時に存在する。
たくさんの人がいるということは、その可能性が拡がるということであり、
そこから新たな関係や世界がつくられる。
そこに希望を感じられるか、シニカルな現実主義として絶望を感じるのか?
そのような構造の元に作られた戯曲がこの「カラムとセフィーの物語」である。
原作はマロリー・ブラックマン(イギリス人)。
白と黒の世界に分けられた構造を視覚的に見せる工夫が面白い。
カラム(亀田佳明)は顔の一部分を白く塗っており、彼の家族も同様である。
彼らは下流社会に生きており、収入が少なく生きることに精一杯である。
一方のセフィー(渋谷はるか)は顔の一部分を黒く塗っている。
この世界では上流階級に属しており不労所得がたくさんあり、
その中でもセフィーは副大統領の娘であり裕福な家庭の娘である。
その二人が恋に落ちる。しかし周囲の環境がそれを許さない。
現実に直面し、高校生だった彼らの関係が変化する。
それは対立構造からくる恨みが復讐へと変化し、それが繰り返されること。
復讐の連鎖は終わることがない留まることをしらない。
その連鎖を二人の恋が断ち切れるのか?
おとぎ話のようなハッピーエンドはここでは描かれない。
二人だけの世界で生きているわけではないので当人たちが属する
属性によって立場というものが発生する。
立場を守り推進しようとするものは同じ組織にいると当然のように現れる。
愛国心とか愛社精神などが自然と生まれて来るように
組織や集団に所属していると自然とそれを守ろうとする意思は働く。
カラムは「解放義勇軍」という名前のテロリスト集団に入る。
家族をなぶられたことによる恨みが彼をその集団に走らせる。
セフィーがその生贄になろうとする。
最愛の女性を組織のために人質にとり
イラク戦争のテロリストのようにビデオ撮影し脅迫文とともに送りつけようとする。
彼女にそのことを強要するカラムの想いはどのようなものなのだろう?
二人はそこで結ばれる。
個人と個人が出会って自然体でいればこのようなことが起こらないのだろう。
どちらが正しいとか間違っているということではない。
この戯曲の原題は「Noughts and Crosses」である。
いわゆる三ますの○×と言われているもの。
三目が揃ったら勝ちというこどもの時にやったゲーム。
このゲームは相手にミスがなく
両者が正面から真剣に向き合う場合には、勝負がつかないそうである。