本作品は、もともと伊丹のアイホールという
公共劇場の「地域とつくる舞台シリーズ」で、
2009年7月に初演された作品らしい。
このシリーズは演劇やダンスのアーティストが、
地域の人々と一緒に舞台作品を創作するプロジェクトで、
劇場を核とした地域コミュニティの形成の第一歩となることを目指しています。
と、アイホールのディレクター小倉佳子は書いていた。
そして、その思惑が見事に成功した例となった。
京都造形芸術大学の卒業生である相模が構成・演出・映像などを担当し、
実際に伊丹に住んでいる、高齢者の方々が数名出ていた。
中には90歳代という高齢のおばあちゃんが出演したりしており、
見ている方が少し心配になるような感じもあり、
そういう意味でもドキドキすることが出来た。
蜷川幸雄がさいたまで行っている「さいたまゴールドシアター」とは
まったく印象の違う人たち。
さいたまの出演者たちはみな元気が良く、
チアフルな老人たちというイメージがある。
蜷川さん自身が70歳代でむちゃむちゃ元気というのもあるし、
人数の多さにも圧倒される。
一方、相模の「ドラマソロジー」は高齢者7名と、
増田美佳という若い女優の8名がシンプルな空間にたたずむ
とても静かな舞台である。
声の発声の問題などを相模はマイクを使うことで解消していく。
マイクを通じて出されるその人の肉声は、通常の生活で話されている
発声方法となんら変わることはないだろう。
マイクを通じて70歳以上の老人たちは自らの話をする。
このテキストを紡いでいったのが大変な作業だったろう。
彼らの言葉を取捨選択して相模が演出を加えていったと
想像したのだが実際はどうなのか?
自らの言葉であれだけの言葉がつづられるものなのか?
みな、それぞれにそれぞれの歴史があり、
それを聞いているだけで面白い。
この人の人生はこんな人生だったんだ。
ということが語られる。
「わたしは○○です。わたしは◎◎でした。」
などというような語りを通じて、
彼らの経験した戦争のことなどについても語られる。
太平洋戦争を体験して語ることの出来る最後の世代が
いまの70歳代の老人たちである。
その後、戦後の復興から高度経済成長を経て
バブル崩壊、リーマンショックに至るまで、
ただ生き続けてきた彼らの生活が眼前に言葉とともに呈示されるのである。
その姿とともに、70歳代以上になった身体が
同時に呈示される。
足元が暗いので定かではないなか
舞台の中を動いている彼らを見ると身体の動きと言うものは
確実にゆっくりになっていくのだなと感じる。
とともに、その身体と向き合い生きて行くということもまた
新たな時間感覚を得るという意味では貴重なことなのかも。
僕の住んでいるマンションの公演のベンチで
日がな一日おじいちゃんやおばあちゃんたちが談笑をしているのを見て、
これはまたひとつの豊かな時間であると思うのだった。
ラストの彼らの行進は?
彼らは、いったいどこに連れていかれるのか?
時代とともに翻弄されるのが私たちであり、
それが生き続けるということなんだろう。