年賀状に書かれている一行の手書きのコメントが
何かのきっかけになったりすることがある。
今年の年賀状で、映画好きのKさんから
「白いリボン」が衝撃的だったことの1行が書かれてあって、
お正月の映画館に足を運ぶこととなった。
観客には、年配の方が多く、若者の数が少なかった。
ミヒャエル・ハネケファンは年配層なのか?
ハネケの「セブンス・コンチネント」を見たのが数年前。
そのあまりの現実から目をそむけない見せ方に驚いた。
画面の中でそのことが起きているわけではないのだが、
あることが画面の外で起きておりその悲惨な事実が
酷く僕たちを混乱させる。
そして、その手法は本作でも受け継がれている。
そういう意味でもこの映画は
見終わって決して「るんるん」な気分になったりはしない。
ドーンと何か自分の中に重いものが残り、
それがいつまでたっても消えないような、そんな映画。
本作はカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞している。
ある村の物語。オーストリアの田舎町だろうか?
典型的な20世紀初頭のヨーロッパの田舎の村である。
中心には教会があり、村のものたちは日曜日には教会に出かける。
そして、この村は同時に伯爵が管理している。
農園を小作人たちが耕し、貴族階級である伯爵家に仕えているという構図。
支配階級は伯爵家と教会の神父さん。
そして、使用人としての村人とその子供たち。
画面の前にストレートに村の人々の悪意は出てこない。
いろんな事件が秘密裏に起こり、その事件を通じて、
村の人々が現状持っている不満などが
悪意の行為として現れる。
そしてこの映画のキーとなるのがこの村の子供たち。
伯爵→小作人→子供たち、或いは、神父→村人→子供たち
みたいな弱いものへ向けられた悪意を描きだそうとする。
一番弱い者たちが何かを感じて悪意に対して復讐をする。
親たちは心配するのだがその悪意の原因を
根本的に取り除くことは出来ない。
村の構造自体がそうなっているから。
これは逆に言うと日本の村社会でも確実に起こりうることなんだろう。
横溝正史の小説にでも出てきそうな。
時は、第1次世界大戦の直前。1914年。
オーストリアの皇太子が殺されるサラエボ事件が
映画の終盤で語られる。
語り部でありこの村の唯一の常識人である、小学校の先生が
この映画の物語をひっぱっていく。
その先生は、後日談として戦争が始まり徴兵された。
彼と村の娘の恋愛が唯一こころなごむシーンだった。
人は必ず裏表を持っている。
善なるものと悪意に満ちたもの。
その現実からハネケはいつも目をそむけない。