(前編)「夢を追った時代からバブル崩壊まで」
(後編)「バブル崩壊から震災まで」
山田洋次が映画を作り始めて50年になるらしい。
これだけコンスタントに映画を作り続けることが出来ている監督は
そんなにはいない。山田洋次監督は80歳になる。
ということは、監督デビューは30歳の頃だった。
50年以上映画業界の第1線で活躍し続けるというのは並大抵なことではない。
松竹の専属ディレクターとして山田洋次はいまもバリバリの現役である。
山田洋次は同時に映画会社との専属契約を結ぶ日本で唯一の監督でもあるらしい。
これはその50年を山田洋次監督作品とともに振り返っていくという番組である。
山田洋次監督は2011年の初頭、ある映画のクランクインを迎えようとしていた。
小津安二郎の「東京物語」をモチーフにした作品だと聞いていた。
その準備の最中に3・11の東日本大震災が起きた。
その何日か後に、山田監督はこの状態で新たな映画を作ることは困難である。
この状況を踏まえて再度、映画の脚本を考え直したいという発表がなされた。
松竹サイドとしては大変厳しい決断でもあっただろう。
しかしながら松竹はそれを受け入れてクランクインを延期することになった。
あの時の発表の記事は印象的であり衝撃的だった。
東北の海岸沿いの街はまだまだ復興に着手できていない。
その街のとある場所に「大漁旗」とともに
たくさんの「黄色いハンカチ」が万国旗のように飾られていた。
復興の象徴としてその街の人が作成したもの。
その風景は山田洋次監督作品の「幸福の黄色いハンカチ」から来ており
いつか幸福はかなうという、「祈り」にもにた気持ちを感じた。
山田監督はその場所に、新たに「黄色いハンカチ」を寄贈したそうである。
本番組は山田監督がその被災地を歩いているところから始まる。
そして、日本の戦後史をたどるように
1961年から2011年までの50年間が描き出される。
1962年には松竹の巨匠、小津安二郎監督が亡くなる。
山田は、ある意味、彼の意志を引き継いだのだろうか?
山田の映画の継続の柱となったのが「男はつらいよ」のシリーズだった。
渥美清の死とともにこのシリーズは終わりを告げた。
いまも葛飾柴又にいくと寅さんの風景は同じように残っており
矢切の渡しの方へ歩いていくと江戸川の堤防を降りたあたりに
「寅さん記念館」はある。
一度、記念館に行ってみるといい。
あの時代の気分がこの記念館には凝縮されている。
こうした「男はつらいよ」という大きな柱があったからこそ、
並行して山田監督は自分のやりたい企画を映画にすることが出来た。
そこには「寅さん」では描けないシリアスなものとか
時代性を色濃く反映させた映画がたくさんあった。
さきほど挙げた「幸福の黄色いハンカチ」以外に、
「家族」「同胞」「故郷」「遥かなる山の呼び声」「息子」
そして「学校」シリーズなど。
その後、藤沢周平原作の時代劇を手掛ける。
「たそがれ清兵衛」「武士の一分」。
最近では「母べえ」や「おとうと」など。
それらの作品を紹介しながら番組は進んで行った。
山田の弱者に対する眼差しが優しくて柔らかい。
ものを創作する人が決して忘れてはいけないものを山田監督は
80年間持ち続けている。
今度まとめて山田洋次監督作品の特集上映をやらないだろうか?
松竹系の映画館で上演されるのを楽しみに待っていよう。