糸井さんという人は時代を切り取って行くジャーナリストである。
そのことをこの特集号で天野祐吉さんが書かれており
大納得だった。
糸井さんは単なるコピー職人ではなかった。
80年代に広告を一線で作っていた人には
そんな方も多かったように思う。
そうして、それらの人々も素晴らしい仕事を残している。
80年代の前半に広告はある種の文化となった。
「サントリー」のCMや「西武」の広告を見て、
広告が、文学や哲学を語ってもいいんだ!と思った。
そして、「PARCO」の広告を見て、
その語り方がアートでもいいんだと思った。
と、同時に「金鳥」などを手掛ける
大阪電通のスタッフの手掛ける、面白いものが一方には存在していた。
もちろん、サンアドやライトパブリシティなどの作る
品の良いものや「としまえん」みたいなのぶっとんだものが登場し、
広告表現が多様性に溢れていく時代だった。
面白かった。
しかし、糸井さんはその後、1990年代に入って、
あまり広告の仕事をやらなくなる。
その理由などは本書を読むと少し語られている。
徳川の埋蔵金や釣り(バスフィッシィング?)などをしていたときは
あまり糸井さんの熱心なファンではなかった。
ときどき、劇場などで舞台を見にいらしているのを遠目で見ていた。
喫煙場所で煙草を吸っているのが印象的だった。
その頃の、糸井さんと僕との接点はテレビゲームだった。
糸井さんが「MOTHER」を作らなかったら
「スーパーファミコン」を買うこともなかっただろう。
ムーンライダースの鈴木さんの音楽とともに
永く記憶に残るゲームとなった。
「MOTHER2」までを真面目にやった。
ラストシーンに感動した。
その後の「MOTHER3」はやっていない。
その後の糸井重里との邂逅は「ほぼ日」との出会いである。
ある時期熱心な「ほぼ日」読者で毎日のようにサイトを覗いた。
あの頃発行されていた「ほぼ日刊イトイ新聞」の会員証を
いまも持っている。IDナンバーが#13732である。
貴重な思い出となっている。
そうして糸井さんはほぼ日オフィスを設立し、
田町にオフィスがある時にときどき前を通ったのを覚えている。
「明るいビル」という名称が妙に印象に残っている。
美味しいお蕎麦屋さんの情報なども教えてもらった。
糸井さんは面白い(興味を持ったものというのが正確かもしれません。)と
思ったことに首を突っ込み、その関係者に会い話をし、
それらの体験が自動生成されるかのように
「ほぼ日」のコンテンツになっていく。
東京糸井重里事務所はいまや、出版社でもあり、
さらに、そこから発信された「ほぼ日手帳」は
いまや35万冊売れるようになった。
コンテンツを通じた物語と、その物語を経験出来る
モノやコトなどを生み出し続けていっているのが
今の「ほぼ日」のスタッフと糸井さんの仕事。
それは単純に大企業の経済効率だけを考えたものではなく、
何らかの想いや感じ方みたいなものを大切にして
救い取ろうという意思が感じられる。
そうした会社のあり方はまさに糸井さんらしいし、
そうした考え方が好きで集まって来た人たちが
ここで懸命に働いているのだろう。
多様な会社のあり方、
多様な生き方の選択を呈示してくれていると言う意味でも
糸井さんが50歳で始めた、この「ほぼ日」の仕事には
注目すべき点がいくつもある!
と今回改めて感じた。