岩波書店が加藤典洋を編集委員とした「ことばのために」というシリーズを刊行した。
その中の一つとして「演劇のことば」というものがあり。
そのことをテーマに平田が本書を書きおろした。
これが書かれる前には随分と「書き始めるまで」の逡巡があったようだと
あとがきを読んで知った。
最初、近代から現在に至るまでの近代演劇の流れについて
わかりやすく描こうと思ったらしいが
なかなか書く気になれなかったそうである。
そこに平田が2004年の夏の経験に沿った形を取りながら、
さらには演劇の近代史の中に
平田家の父親と祖父や大叔父のエピソードなども挟み込んでいけば書けるかな?
という気がして本書を執筆したそうである。
人は何かを書くときにその「核」にあるなにか、
あるいは、書くきっかけになる想いの「種」、みたいなものがないと、
筆がすすまない。
これはとても共感出来る言葉である。
そういったものが見つからなくて
いざ書こうと思っても、いたずらに時間だけが過ぎて行き
何も生まれないということが良くある。
苦労して平田が書きあげた本書は「演劇のことば」という題名の
とてもわかりやすい近代演劇史の本になっていた。
明治維新が起き、海外の文化を輸入しようという
国家の戦略が実行された。
演劇も些少ながらその影響から海外の演劇を日本へ!
という動きもあったらしい。
がその導入の仕方にとてもいびつなものがあったのも確か。
というのも当時の日本人は演劇とは何か?
などという考えがなかったから。
第二章の「近代演劇の成立」の項がとても笑える。
みんなが、わからないまま海外のものを導入しようとしたことの
滑稽さを、平田の冷静な文体によって増幅される。
小山内薫が書いた明らかに喋り言葉になっていない戯曲
「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」のくだりなどを冷静に批評する。
あの坪内逍遥のシェイクスピアも当時の訳は
「おお、ロミオ、ロミオ!何故おまえはロミオじゃ!ててごをも、
自身の名をも棄ててしまや。
それが否ならば、せめてもわしの恋人じゃと誓言(せいごん)して下され。
すれば、わしゃもうカピューレットではない」
こんな感じだったらしい。
平田はこれに対して、
「こういう翻訳調と擬古文調の入り交じった台詞を、
素人同然の俳優が、何の方法論もなしに言うのだから、
そこには大きな無理がある。」
とクールに言い放つ。
そのギャップがとても面白かった。
笑いながらも読みやすい文章を追っていくと
演劇の変遷がわかるようになっているというのが本書の最大の特徴なのではないか?
築地小劇場の誕生から、初めての近代以降の劇作家とも言える
岸田國士の登場、そして政治活動と一体となった「演劇という運動」について、
戦後、三島由紀夫が一つの演劇のことばを作り、
その後、新劇を否定した形で始まったアングラ劇、
さらに、その後の小劇場演劇と話はつながっていく。
現在の東京は様々な演劇のバリエーションが
毎日のように見られる世界でも稀有な都市となった。
そしてこの数十年で演劇のことばが日本での独自性を獲得していく。
このことは、平田はいまも最前線の現役なので本書の中で多くは語られないが、
その一翼を担っているのが平田オリザ自身でもある。
演劇がきちんとした国家のシステムの中に組み込まれなかった理由は
政治的なことも含めていろいろあったのだろう。
芸術大学で演劇を本格的に学ぶというところがなかったということもある。
しかし、最近では、国語の授業で演劇を創ろうなどのカリキュラムが組みこまれている。
今年からはダンスが中学以上の生徒の教育に組み込まれることになったらしい。
時代状況は確実に変わっている。
今度、機会があれば、現代演劇のことについての
平田オリザの文章を読んでみたいものだ。