鈴木大拙という名前はこの「禅」について書かれた本や講演などで有名。
先日の新聞にも鈴木大拙の「禅」についての晩年の公演記録が
CDとしてセットになって売られている記事が掲載されていた。
「禅」というと。厳しい座禅などの修行と精進料理、
そして「そもさ」「せっぱ」という禅問答などが有名であるが、
その考え方の本質を知らないので
読んで知ってみようと思ったのが本書を手にとったきっかけだった。
そういえば「一休さん」も禅問答をしているので
「禅宗」のお坊さんだったのか?
禅の修行は「生きているうう!」という感じを強くするものだな!と思った。
この瞬間に生きていることを噛みしめる幸せみたいなものを
意識的にさせてくれるものではないのかな?と感じた。
そして「禅」と親和性が高いのが「茶の湯」であり「能楽」であり「俳句」である。
こうした芸術的行為が「禅」的なるものであり、
その「禅」的なるものとは「日本」的であるということに通じる。
極端に研ぎ澄まされ無駄や無理を排除して
シンプルに簡潔にした「美学」がそこにはある。
それは「能」も「茶の湯」も「俳句」も同じ。
徹底的に研ぎ澄まされたものがそこにある。
本書は鈴木大拙が外国人に向けて英語で書かれたものが原典である。
原題は「Zen Buddhism and its Influence on Japanese Culture」(Kyoto:1938)
それに「禅と俳句」という1章を新たに加えて和訳したもの。
全部で7章からなる。
1「禅の予備知識」
2「禅と美術」
3「禅と武士」
4「禅と剣道」
5「禅と儒教」
6「禅と茶道」
7「禅と俳句」
である。
鈴木が古典を良く引用するのだが古文と漢文の素養がなければ
読めない箇所もたくさんあり、そこの部分で難儀したところもある。
最近、特に思うのだが漢文の素養が現在の「日本人」に残っているのだろうか?
と自戒を込めて思う。
戦前の日本人は多くの人が豊かな漢文の素養をもっていたと聴く。
中島敦という作家がいる。
彼の著書「山月記」を読みはじめたことがあるのだが、
漢文の素養なしにはとても読めないものだとわかり
挫折したことがあった。
本書の中で印象に残った箇所を引用する。
禅と科学を対比したところである。
「禅は体験的であり、科学は非体験的である。
(中略)実体こそ禅において最も高く評価されるものである」
言葉はいらない目の前のその実体こそが重要であると説いている
この考えは武士道みたいなものに通ずるのではないかな?
直感の重要性もそのなかにはあるだろう。
「気」を感じるチカラみたいなものも含まれるだろう。
人間の本来持っているそのような「能力」に着目し、
修行を通じてそれを気づき目覚めさせ悟りに至るという、
武士の時代にまさにふさわしい宗教かも!と
何となく感じられたのであった。
そこには豊穣なものはなく徹底的にそぎ落とされたものだけが残り、
日本人はそれらを「わび」「さび」として認め評価する。