公開して随分時間が経ったがやっと見ることができた。
新宿ピカデリーはむちゃむちゃ多くの人でごったがえしていた。
小さなエスカレーターとエレベータ―だけが劇場へのアクセス方法であり、
開演の10分前までロビーで待たせる方式をとっている。
人が歩いていける階段もなく、この劇場は経済合理主義だけを追求して運営しているのか?
映画を見る人が多いのはいいのだが、この劇場の運営方法を見直していかないと、
いつか事故が起こるのでは?と心配になった。非常階段がある場所がわからない。
劇場内には、公開してもう1か月近く経つのにこの映画を見る人がたくさん。
僕の座った座席の左右も埋まっている。両隣ともなぜか若い男女のカップル。
あの人たちはこの映画を見てどんな感想を持っただろう?
フジテレビが製作委員会で参加している。
そして福山雅治が所属するアミューズと
配給をしているGAGAの三社からなる製作委員会。
その大きなシステムの上で監督の是枝さんは奮闘努力したのだろうか。
生まれた子供が取り違えられていたという話。
病院からその知らせが来る。動揺する二組の家族。
子供は6歳を迎え、小学校に入る準備をしているときだった。
通常の場合、こうした取り違えが起こると、
血の繋がっている家族へ戻されるのが普通のことらしい。
いまは、こうした取り違えは起きないようになっているのだが、
戦後すぐの子供たちがたくさん生まれていた
ベビーブームの時代には何件も起きていたことらしい。
その頃は少子化という言葉もなく。兄弟もたくさんいた。
しかし、今は一人の子供にかけるものが大きくなっている。
月島の高層マンションの上階に住む福山雅治と尾野真知子。
福山は一流大学を出て大手建築会社に勤務している。
一方の夫婦はリリー・フランキーと真木よう子。
前橋?の郊外で電気店を営んでいる。
いわゆる、TOSHIBAのお店というやつ。
尾野の実家が前橋にあり、そこの病院でこの取り違えが起きた。
この二組の家族と、取り違えられた子供たちを中心に物語は展開する。
最初の数十分間、ある違和感を感じながら観た。
これは順撮りで行われたのだろうか?
どこかぎくしゃくとした中で映画は進んでいく。
これが演出なのか?どうなのか?とても気になった。
関西弁がときどき出て来るのも関西人には気になるところ。
しかし、後半になるとその違和感も少なくなっていき、
物語を追っかけていくことになる。
父親とはどういう存在なのか?血がつながっているから親子なのか?
そうでなくても親子でいられるのか?
いろんなことを考えるのだが、一番腑に落ちたのは
子供は親がコントロールできるものではなく、受け容れていくものだということ。
最初から純粋に子供を受け入れることが出来なくなっている
父親というのが確実に存在するのかも知れない。
と、子供のいない僕は想像した。(W)
あくまで想像。
電気屋さんの三人兄弟の一番下の弟がいい。
良くあんな画が撮れたと感心した。