これが今年見たF/T13最後の作品。
オーストラリアの演劇ユニット。演出:ブルース・グラッドウィン。
知的障害を持った俳優たちと作り上げたこの舞台、
手間も時間もかけてこれだけのものを作り上げたという事実自体に驚く。
インドのガネーシャ神がインドの幸福の印とされている「卍」(まんじ)の記号を
ドイツ第三帝国が奪ったということで、ヒットラー率いるナチスのところに
ガネーシャ神が取り返しに行くというストーリー。
荒唐無稽なこのお芝居をどのように作っていくのか
というプロセスをゲストである健常者の俳優と
知的障害を持った4名の俳優の計5名で演じる。
ガネーシャ神を演じるのは言語障害のない知的障害の俳優。
象の被り物をかぶり、おなかがぽっこりと出ているのでいかにもといった感じ。
同じくヒットラーを演じる俳優は小柄で身体機能が不全。
ひょこひょこと歩きながら痩せぎすの俳優が舞台を歩く姿は
まるで本物のヒットラーを見ているみたいである。
この舞台の創作途中でいろんな葛藤が起きるのがこの舞台のポイント。
知的障害者たちは、演じるということと現実の世界との違いがわかっているのか、
わからなくなっているのか?ここで演じていることこそが真実なのではないだろうか?
というように思えてきて、彼らが混乱しているのを見ていると
みている方も混乱してくる。
いったい演じるとはどういうことをいうのか。
ナチュラルな演技とはどのようなものを言うのか?
という根源的なことを改めて問われているような気分になる。
例えばナチスの親衛隊に後頭部を拳銃で撃たれ倒れるというシーンがあるのだが、
ある俳優は必ず拳銃で撃たれると身体を反転させ仰向けになって倒れるのである。
普通なら後頭部を撃たれるとそのまま前のめりになって倒れるだろうと思うのだが、
彼らの行動がその常識的な概念を覆す。
ああ、びっくりである。
そして、それを演じる知的障害を持った俳優は
何度も同じ行為を繰り返す。
かたくなに重力に反する演技を行う。
いくら親衛隊役のゲスト俳優が演出的なダメ出しをしても。
見ていると、これはもしかしたら「死」に対する彼らの反発なのではないだろうか?
と思った。
人類の中でマイノリティながらも生きていかなければならない
彼らのような人々は
自らを守ろうとする生き方を自然と選んでいるのではないのだろうか?
それは、ほかの知的障害の俳優がゲスト俳優で言うと他の俳優に
何度もハグするシーンがあるのだが、そうしたシーンを見ても、
彼らは根本的な意味での平和主義者であり、彼らは決して
人殺しをしないのではないだろうか?いわんや戦争をや!である。
彼らみたいな感じ方、考え方をしていれば、
決して戦争を起こす必要などないだろう。