昨年2013年の1月24日にオートバイの事故で亡くなったテオ・アンゲロプロス監督。
亡くなった時にはこの映画に続く新作の撮影中だったらしい。
そのちょうど一周忌にアンゲロプロス監督が最後まで手掛けた最後の作品が
日本公開された。字幕翻訳は池澤夏樹。
テオの映画をずーっと訳し続け、自らも交流があった作家池澤夏樹の手になるそれは
貴重なもの。
池澤さんが長くギリシアに住んでいてギリシアの戦後史を知り尽くしている
というのも翻訳に強い説得力がある。
第二次大戦後多くのギリシアに居た人たちが難民として国外に移動した。
映画はその戦後の1953年から20世紀の最後の年までの約50年間を切り取る。
エレニの半生記にもなる。
1953年ウクライナ?(当時のソ連)の街。
ソ連指導者のスターリンが亡くなり、その死を悼んだ式典が
スターリンの像が建っている広場で催される。
テオ・アンゲロプロスは多くの民衆が出て来るシーンを描く。
それは過去の作品にも共通している。
歴史の中で翻弄され移動しつづけるギリシア人たちを温かい愛情と、
ある種あきらめにも似たまなざしによって描きだす。
このまなざしこそがテオアンゲロプロスの映画を
彼の映画らしくしている大きな要素。
民衆は大声で反旗を翻し自らの運命を変えるために闘ったりしない。
自らの運命を受け入れ、その中で少しの音楽と友人と家族が居れば幸せ。
ときどきダンスをし一緒に食事をしウイスキーを少し飲めればそれでいい、と、
そんなある種の諦観とも言えるような感覚を持ちながら生きている。
それを、テオアンゲロプロスはそっと切り取り、わたしたちは
その人生の断面を見て自らに置き換えしみじみとする。
この監督の映画を小津安二郎が見たらなんと言っただろうか?
ヨーロッパの辺境の国と日本はどこか通底するものがあるような気がする。
また、映画作家がこの中に登場する。小さいときに分かれたエレニの息子である。
彼は現在NYに住み、世界の様々なところで映画作りを行っている。
彼には別れた妻と一人娘がいる。娘の名前はエレニ。母親と同じ名前。
人生はこうして続いていくのだ!という監督の想いの表れだろうか?
テオ・アンゲロプロスはこの映画監督に自身を重ね合わせているのだろうか?
深い思考をしつづけるこの映画作家、その圧倒的な孤独と
世界の映画監督であることが共存している。
民衆たちとの対比を感じる。
芸術家の孤独は何かを創りつづけることでしか癒されないのかもしれない。
そういう人が芸術家になるのだろう。
テオ・アンゲロプロスの映画は簡単なものではない。
戦後のヨーロッパの歴史などを理解しなければ深いところまではわからない。
その意味でも本作を見るにはあらかじめHPなどであらすじを読んで、
歴史的事象を確認してから見ることをお勧めします。自戒を込めて。