何かと不穏な空気の流れるウクライナ。
プーチン大統領がウクライナを鎮圧しようとロシア軍を送りこむ。
EUの仲間になりたいと思う派閥と、
ロシアの側にいたいという派閥があり
その葛藤の中でいさかいがおきる。
本作はそのウクライナを舞台にした
ウクライナ人監督ミロスラヴ・スラボシュピツキーが作った
初めての長編映画。
ウクライナのキエフ?の郊外にある聾(ろう)学校(全寮制の高校)が
この映画の主な舞台である。
そこに少年が転校してくるところから本作は始まる。
聾学校なので全編セリフはない。
手話がなされるのだが監督の意図だろうか?
そこに字幕は一切入らない。
聞こえてくるのはその場所で録音された状況音のみ。
音楽もない。
静かな中に熱い煮えたぎるものが画面からにじみ出てくる。
観客には大きな負荷を与える映画でもある。
音声がないので彼らの様子をじーっと見ていなければならないのである。
最近のTVドラマのような日本映画や吹替えの外国映画に慣れた人には
過酷な体験かも知れない。
しかし、その過酷な経験を終えるとなんだかわからない
達成感と強いインパクトがココロの中に残る。そんな映画。
万人向けではないかも知れないが、ある人には深く刺さる映画となって、
今年の映画の中で語られる一作となるだろう。
ある人を愛してしまったことで起きた悲劇を描いた映画である。
主人公の男の子は、転校早々その学校の悪ガキたちに囲まれる。
意外と喧嘩が強いこともあって、彼らとつるんで悪さをするようになる。
本当に彼はそういうことをやりたかったのか?
ウクライナという国に関して知っていることがあまりに少なすぎて
そこの社会情勢などがどうなのかがわからない。
悪ガキたちは、仲間を増やしたかっただけなのだろうか?
彼らは、学校内でたばこは吸うわ、酒は飲むは、暴力はふるうわ、
かっぱらいはするわ、無法地帯である。
この学校の同級生の女子2人を毎夜毎夜、
トラックの停車場に連れて行き売春をあっせんする。
これってまるでヤクザ映画か?と思う。
そして中島哲也監督の映画「渇き」を思い出す。
「渇き」では優等生と思われた少女の悪行が徐々に露呈していく映画なのだが、
本作では、悪行がこれでもか!と思えるくらいストレートに描かれる。
最大の違いは喋らないこと。
聾唖者ということで音声のインパクトが強くない分、
映像がストレートに描かれる。
愛情表現を誤解してしまった男は
自傷行為のように他傷行為を行う。
自暴自棄になるからこそ犯罪を犯してしまう。
ウクライナが平和になったら行ってみたいなと少しだけ思った。
最後にHPからの監督の言葉を引用する。(このことを知って衝撃だった。)
私は決してこの映画を声の出る俳優たちでつくろうとは考えなかった。
それではまったく違ったものになってしまうだろう。
人は話をするとき、発音するのに必要な顔の筋肉しか使わないが、
聾唖者はコミュニケーションをとるために体全部を使う。
このことが彼らを唯一無二のものにしている。
私たちはキャスティングに1年かけた。