上演時間(10分の休憩2回入れて)4時間!ということで上演開始時間18時!
金曜日、代休を取って見に行った。
この、葛河思潮社では5回の公演のうち3回が「浮標(ぶい)」の公演である。
普通の感覚を持ったプロデューサーなら、
「えええええ!あの大変な公演をまたやるのおお!
2時間くらいの演目を探して、やるのはどうでしょう?!」
と言うのではないだろうか?
しかし、演出の長塚圭史が強い信念を持ち、その想いを制作部の伊達暁が受け止め、
さらに俳優の田中哲司が覚悟をもって引き受けた。
こうした思いのこもった公演が面白くない筈がない。
僕はたまたま3回見ているのだが、そのどれもが印象に残り、しかも毎回見え方が変わってくる。
スタッフやキャストが繰り返し公演することである種の高みに到達しているのではないだろうか?
劇作家の三好十郎が考えた以上の結果がここにあるのだはないだろうか?
開演するとすべてのキャストが舞台上に登場してくる。
演出兼俳優の長塚圭史が観客に話しかける。
「長い芝居なのでリラックスしてみてくださいね。
そしてこの戯曲には、ト書きに時は現代と書かれています。」
と語って舞台は始まった。
この戯曲が実際に書かれたのは1940年のことであり日中戦争が行われていた時期と重なる。
その後、日本は太平洋戦争に突入していった。
二村周作の手になる舞台美術は依然と同様、大きな三尺幅くらいだろうか?
四角の木の枠がしつらえられ、その真ん中には本当の砂が大量に敷かれている。
千葉のどこだろうか・海岸沿いの小さな村で田中哲司演じる画家の久我五郎と
原田夏希(妻:美緒)が小母さん(佐藤直子)の世話になりながら療養生活を行っている。
結核を患った美緒は具合があまり良くない。
療養生活を送る前は近所の人のためにと託児所をはじめて、その過労から身体が衰弱し
結核を患ってしまったようである。
美緒の実家はわりと裕福な家庭らしく実家からお金を送ってもらいながら
細々とこの海沿いの街で暮らしている。
画家の久我五郎は自らの芸術活動をほとんどやらなくなり
美緒によりそい介護を小母さんと一緒に行っている。
あの時代に、ある種のファンタジーとも思えるような愛くるしい二人の生活が描かれる。
久我五郎はお金を稼ぐために絵本の挿絵を描いたりして湖口をしのいでいる。
でも、その収入だけではやっていけず、
ここで借りている家の家賃をずいぶんと貯めており、
いつも来てくれる魚屋さんにもツケがたまっている。
そんな二人のところに家賃の回収に大家さんがやってきたり
金貸しをしている友人が借金取りにやってくる。
また、学生時代の友人が出征すると言ってやってきたり、その友人の妻も追いかけてくる。
美緒の実家からは母親のお貞(池谷のぶえ)
が妹と一緒にやってきて、不動産の名義の書き換えの話を迫る。
現実と五郎と美緒の二人の世界との対比が描かれる。
純粋なるもの美しいものに対する現実がそこには絶対的に存在し、
三好の戯曲はその現実から目をそらさない。
その現実の中で生きていくからこそ、
より美しいもの儚いもの純粋なるものに対してのいとおしい気持ちが拡がっていくのである。
そんな、たおやかでやわらかな気持ちになる舞台です。
長塚圭史の医者の役もいい!
美緒(原田夏希)の教え子が訪ねてくるシーンも秀逸。
二人は万葉集を読みその世界にこころ遊ばせることを無上の喜びとしていた。
その感覚は実は「現在」につながる「幸福感」なのでは?
と三好が長塚が語り掛けているのだろうか?9月4日まで。