演出家のYさんからDVDを借りていて、暫く見ていなかった。
BOW30周年の上映でダイジェスト版の2時間ばかしのものは映画館で見た。
引用に次ぐ引用。
何がどこの言葉でどう引用されているのかが理解できない、というかその知識がない。
その差に愕然とした。
今回、8章を一気に見て、
ダイジェスト版「映画史・特別篇―選ばれた瞬間」を見たときとは全く違う印象を残した。
所詮、2時間ばかしでは、ゴダールの考えていることなど
到底伝わりっこないんだということの証明にもなっている。
今回、「ゴダール映画史・全8章」テクスト・完全復刻版(750円)を
手に入れることが出来、見終わってから読んでいると、その引用の凄さといったらない。
ありとあらゆる、哲学や絵画、もちろん映画、文学、写真
そして政治や歴史の事象について徹底的に引用され、
再構築したものを断片的にではあるが僕たちに提示する。
それは、単にイメージの断片にしか過ぎないものが、
構成されることにより、言い換えるとフォルムを形作ることによって
新たなイマージュの形成が行なわれるということの
思考のプロセスと、その大いなる野望を試みた結果のひとつである。
完璧な答えなんてない。
どれくらいの時間をかけたって、完璧な「映画史」なんてありえないことは、
ゴダール本人がいちばんわかっているのではないだろうか?
映画では、ある意味「詩」のような美しい言葉の断片が
きれいなフランス語で語り続けられる。
このテクストそれ自体が大いなる叙事詩のようである。
ゴダールはまさに20世紀の吟遊詩人になった。
そして、その語りと同時並行で、
イメージの断片である写真や動画が様々にコラージュされて視覚によって提示される。
さらに、そこにスーパーインポーズで様々な意味深い言葉や引用などが提示される。
僕が興味深く覚えているのが、
FATALE BEAUTE(命がけの美)そして
CONTROL UNIVERSE(宇宙のコントロール)という言葉とタイトル。
宇宙のコントロールをやり得た映画作家をゴダールは二人だけ挙げていた、
カール・ドライヤーとアルフレッド・ヒッチコックである。
各章の冒頭で、ゴダールはそうそうたる20世紀の映画批評家や
映画作家に対して、この「映画史」を捧げるという言葉が挿入される。
「映画史」自身もゴダール自身の映画に対する批評である。
これは、まさしく、ゴダールの映画論なのだ。
それはあまりにも美しく、あまりにも哲学的であり、
瞬間的に理解をされることを強靭に拒否している。
まるで大学での、講義のテクストのようでもある。
何度も見直して考え、またテクストにあたる。
そして自らの頭で考える。
そのための手強い教科書があるというだけで嬉しい。
これこら、僕はことあるごとに、
Yさんからお借りした「映画史」を見ることになるのかも知れない。
最後に、この「映画史」のことを僕自身が、
言葉で語ろうとしていること自体の無意味さについて、
感じたのが、音の使い方である。
ゴダールの音使いは、
フランソワ・ミュジーという(天才的な音響技師とでもいったらいいのか?)の
協力を得てに力強いものになっている。
時には強く、ときには優しく、ときには美しい。
クラシック音楽を中心としたこの音のコラージュの素晴らしさは
この「映画史」自体を全体で体験しなければ結局理解できないものだ
ということを感じることになる。