内田先生は1951年生まれ。釈先生は1961年生まれ。
ほぼ一回り年が違う二人が、「内田樹の研究室」という
WEBサイトの片隅で始めたのが本書のはじまりとなっている。
内田樹が仏教のことについて持論を交えながら
雑談形式でものごとが進んでいく。
内田先生の言葉はわかりやすく、そのわかりやすい言葉から
宗教の深奥に入って行くのだろうか?
昔はこのようにわかりやすく宗教観を説いてくれる人が周辺にいて、
そのことによって一般的な形で宗教、
所謂日本での仏教が広まっていったのだろうか?
鎌倉時代にありとあらゆる種類の宗教観が芽生え、
ほんとうに多種多様な仏教が日本に根付くようになったのは
奇蹟とでもいったらいいのだろうか?
断定口調でないのは僕自身いまいち確信がないからである。
内田先生はシンプルな言葉で宗教観の本質を突く。
その本質的な宗教観を釈先生が仏教用語を用いて
僕たちにわかるように、でもわからないところもあるのだが
伝えようとしてくれる。
そんな体裁をとっている。
読み終わって、あ!失敗したと思った。
これは持仏堂1とあるように、続編が刊行されており、
2に続くのであった。
しまった。読み終えてから気づいたのでは遅い。
そのまま2になだれ込んで読み続けるということが寸断されてしまう。
何故、本屋さんに2が置かれていなかったのだろうか?
海外ロケ中に読み終わってしまったので、
すぐに本屋に買いに行くというようなことも出来ない。
とにかく帰ったらすぐに購入して続編を読み始めよう。
そんな気にさせるものだった。
例えばこんな風である。
自由と宿命は「矛盾するもの」ではなく
「位相の違うもの」である。
ほんとうに自由な人間だけが、おのれの宿命を知ることができる。
私はそのように考えている。
むしろ武術の稽古が教えようとしているのは、
「生きることへの執着は、『よく生きる』ことを妨げる」
という生死の根本原則ではないでしょうか?
「制度宗教」「自然宗教」「市民宗教」の違いから
鈴木大拙の「葉隠」の話になり、
そこから禅と武士道の精神につながる。
鈴木大拙は鎌倉新仏教こそ、
日本人の魂の核である、といいます。
日本人が制度宗教を苦手とするのは、
その根本に「これが『ワンアンドオンリー』の完全なる宗教儀礼であって、
これだけやっとけばもうザッツオーライ」という考え方そのもののうちに
「神への不敬」を感知するからでないかと思います。
なるほど、今、改めて読んでも面白い。