大槻ケンジの原作をケラリーノ・サンドロヴィッチが脚本・監督した映画。
ある焼肉屋さんでKさんと話していたときの強力オススメ。
KERAは12月のナイロン100℃公演「わが闇」で
映画の製作委員会のことについてかなり厳しい語り口で描き
そのことが笑いを誘っていたのだが、
そのこととこの映画は関係があるのか?ないのか?
それはおいといても、KERAらしい映画である。
脇役は小劇場出身の役者たちがたくさん出ている。
彼らのハイテンションは飽きない。
それでも、映像になると多少テンションの高さのギャップは
マイルドになるがKERAファンにはたまらない。
会話が成立していない面白さ。お約束のように現れる設定。
例えば主人公の男の子が自分の部屋で
オナニーをしようとパンツをずり下げて「GORO」と思われるグラビア誌を拡げると
必ずモノクロの宇宙人の記事の部分を開いてしまい。
その後、グラビアページを開けて、コトにいそしんでいると、
フスマが開いて、母親が後ろからじーっと見る。
その構造が何度となく繰り返される。
ここにこの映画の根っことなるものが集約されているような気がする。
別に素敵で爽やかな恋愛映画にしたかったわけではないだろう。
製作委員会はそのような純愛恋愛映画みたいなものを望んでいたのか?
高校時代の甘酸っぱい記憶を想起させる男の子の思い出を
捜すような映画にしたかったのか?
それなら「世界の中心で愛を叫ぶ」を見ればいい。
「恋空」を作ればいい。
KERAに万が一そのようなことを望んでいたのなら、
それは無理というものである。
そんなことの対極にある人が映画を作ることの面白さがここには出ている。
編集の仕方も面白い。
あるシーンを長回しで撮影したものを、
サイズが微妙に違うので
ジャンプカットのようになってしまうのだが
KERAはそんなことはお構いなしにどんどんつないでいく。
最初は戸惑い不思議な感じがする。
画が飛んでるやん!と思うのだが。
すぐにそれにも慣れてくる。
とその編集は音のリズムや間合いテンポがいいのである。
映像は後からついて来い。
俺は台詞の音声を中心に編集しちゃうからな!
というような意思を感じるのである。
さすが元ミュージシャン「有頂天」のKERAである。
2007年の大森南朋が
1986年の高校時代の自分を回想するような形で物語は進んでく。
当時の風俗が再現されていて気恥ずかしい。
丁度、僕が大学を卒業して東京に出てきて2年目の頃の話。
そのころは聖子ちゃんカットがまだ残っており
「スコラ」などという写真雑誌や「フールズメイト」などと言う
音楽雑誌が花盛りのサブカル全盛の頃だった。
KERAは以前「1980」という映画も作っている。
同じような時代のそれぞれの青春群像を描きながら、
青春って別に輝いたりしているわけないんだよね。
というリアルな本音の部分を遊びながら救い出した
ある種のカルトムービーと言うのが
この映画を語るのに適切なワードではないでしょうか?