「存在の耐えられない軽さ」という映画が公開されてから
何年経つだろう?それを書いた作家のミラン・クンデラは
旧チェコスロバキア出身の作家。カフカと同じである。
共通して言えるのは一筋縄ではいかないということ。
今回の舞台を見て、そんな印象をもった。
この公演自体は、まつもと市民芸術館の
芸術監督である串田和美がプロデュースしたもの。
串田和美+白井晃プロジェクト第2弾と銘打ってある。
第1弾は「ヒステリア」。
これは、世田谷パブリックシアターで上演されたらしい。
今回の観劇は、たまたま知り合いのチケットが回ってきたので
見に行けることになった。
こういった偶然性を楽しむことによって
思いもかけない出会いが生まれる。
外は春の風が吹き荒れていた。
強い風で、東西線が一部止まっている。
かなりゆっくりとしたペースで電車は進み、吉祥寺に到着する。
ジャックとその主人が旅をする。
それは実際に行われているのか、
空想の中の会話なのかがわからない。
東欧らしい物語だなあと思う。
そこでいろいろなことが起こる。
男女の関係が起こったり、その結果子供が生まれたり。
しかし、それらのことは全て天に書かれてあると言う。
運命論的である。
舞台の造りが、見た目、まさにメタシアトリカルな構造になっている。
舞台の奥にさらに小さな舞台があり、演じ手は時に観客になり、
時に演じ手になる。
これは実際の生活も同じであろう。
僕たちはそれぞれの役割を演じながら生きている。
そのことを敢えて演劇的に見せ付けられ提示されることによって
何か考えることのスイッチがONになる。
舞台の中の小さな舞台は照明が強くあてられており、
ある種ファンタジックな空間が作られている。
そこで奇妙な話が繰り広げられるのである。
残念ながらその奇妙な話はほとんど覚えていない。
しかし、そこで起こっていることが本当のことなのか、
架空のことなのか、天に書かれていたことなのか、
そうではないのか?それは誰にもわからない。
ということだけはわかった。
終演後、串田さんと白井さんのアフタートークがあった。
その中で、串田さんが舞台を見ることによって、
いろいろなことを考えるきっかけになればいいです。
どれが正解なんてありません。
とにかく見て、感じたことによって何かを考える。
舞台を見る楽しみのひとつはそこにあるのです。
と。
商業演劇では出来ない試みをすることによって
串田さんが語っている言葉の本質の一部を
垣間見せてもらったような気がした。
そのためにも公共劇場の主宰公演は貴重である。