ロバート・アラン・アッカーマンが創設した「rhe company」二度目の公演。
前回のシアターモリエールから一転、今度は大きな劇場へ。
世田谷パブリックシアターの舞台に70人近いキャストが現れる。
舞台は1945年の日本。
戦後すぐの時代、進駐軍が日本に駐在し、日本人たちは生きることに必死である。
その日本でさらに苛酷な状況にある朝鮮人部落の朝鮮人たちがいる。
進駐軍は朝鮮人部落に大量のモルヒネを横流しする。
それは日本人の多数が共産主義に流れていかないために
拮抗するチカラを少数派である朝鮮人に与えることによって、
バランスを取るという理由からである。
ある国家の中で違う民族が共存することによってチカラのバランスが保たれる。
そうすることによって、日本人が先鋭的な
共産主義国家にならないようにという戦略だそうである。
と、台詞の中に出てきており、なかなかその真意を理解出来ないながらも
なるほどナーと思った。
単一民族集団が先鋭的に一つの思想に走らないようにバランスを保つために。
さらに、その朝鮮民族を警察権力で鎮圧しかねるというところから
生まれてきたのが戦後の暴力団であると何かで読んだことがあった。
清濁あわせのみながら生きていく事が現実でもある。
この舞台で表現される、米国の戦略はヒューマニズムなどでは決してなく、
純粋に国益のために行われるのだということが良くわかる。
国家の決定は国益のためにあり、
決して国民のために行われるものではない。
この混沌とした状況の中で生きていく人々はたくましい。
この舞台ではそのたくましい人々が描かれている。
アラン・アッカーマンは戦後のどさくさの日本を描いた
「酔いどれ天使」や「野良犬」などに代表される黒沢明の映画世界と、
芥川龍之介の「藪の中」を原作にした黒沢明の「羅生門」の世界を
ドッキングさせたかったのだろう。
戦後すぐの日本で起こる事件を語る証言。
その証言が証言者によって食い違う。
それをフィルムノワールのスタイルによって再現できないかと
アラン・アッカーマンは考えたのだそうである?
パンフレットを読むとそのような意図が記されている。
実験的な試みである。
そして、その試みはある意味成功し、ある意味大いなる失敗をしている。
演劇は大いなる失敗が出来る場でもある。
言い換えると、演劇は表現の冒険が出来るメディアであるということなのだろう。
ここでの大いなる成功は、ある型に舞台をはめ込んでいったこと。
それが、多くの人にわかる表現につながったのではないか?と思った。
逆に、大いなる失敗であると思ったのは、
戦後の日本の状況に関してあまりにもステレオタイプな印象だけが伝わるということ。
そこには型だけが残り人間が残らなかった。
黒沢の映画とは違った。
敢えて戦後の日本の風景を表面的に描くことによって
アラン・アッカーマンは
何かを意図していたのだろうか?
そこのところを聞いてみたいと思った。