「仮面夫婦の鑑」聖天通劇場フェス2025 リーディング公演(@聖天通劇場)
演出:下野佑樹(フキョウワ)、出演:永井秀樹(青年団)、石田麻菜美
加藤拓也という劇作家であり脚本家であり演出家の方がいる。本作を見て加藤拓也のことを想いながら見た。2021年4月にNHKの夜ドラの枠で「きれいのくに」と言うのが放送された、あまりにも過激な内容で衝撃を受け、最後まで真剣に見てしまった。加藤拓也はそれ以外にも、映画や演劇なども手掛けておられている。私は、そのドラマを見た後の公演「ぽに」(2021年10月)「もはやしずか」(2022年4月)「ドードーが落下する」(2022年)「綿子はもつれる」(2023年)などを拝見した。2024年11月3日には加藤さんの「情熱大陸」が放送された。「きれいのくに」ではいい顔の基準というのが全国的に出来ているという世界が描かれ、男性はすべて稲垣吾郎の顔になって暮らすというもの。女性は加藤ローサ。その度肝を抜く設定にびびった。
ルッキズムという言葉が普通に使われるようになって、人の顔や見た目のことを言うことがタブーになりつつある時代。見た目を変えることはどういうことかを考える?医師免許を取った人たちが最近は美容外科への道に進むことが多くなっているらしい!収入は良く、当直や夜間勤務などがないという理由が主であると書かれていた。韓国では美容整形が普通の歯の治療のように普通のこととなっており、韓国に美容整形ツアーに行く人も多いと聞く。
本作はその美容整形をした夫婦の物語だった。仮面夫婦とは、そういうことなのか?と見終わって納得し、そのシニカルなタイトルの付け方に感心する。自分の顔に自信を持てなかった妻が美容整形をして戻ってくる、そして同時に夫も自分の顔を整形した。夫はイケメンにするということではなく逆の方向に整形を行ったらしい。リーディング公演なので、その姿を俳優の身体を通して観客がその変わった姿を想像して鑑賞するというスタイル。意外と想像力を刺激して面白い。ある種、登場人物が複数で演じる落語のようなスタイルと言えばいいのだろうか?
なんで、整形したんや!
と妻を責める夫。しかし、夫も自分の顔を整形しているという逆説が笑える。こういう創作をする大阪の作家がいるんや!と少しうれしくなった。ので、ちょっと「フキョウワ」について調べてみた。https://fukyowa.com/
HPから引用する。2019年8月20日旗揚げ。作・演出を下野が行うオリジナル作品から、既成台本の上演も行う。認知的不協和の中で生きる人々を肯定的に捉えつつ、シニカルとエスプリでPOPに描く作風。「現実に対する不信感」を基軸に、斬新な発想を論理性で組み上げる演劇を展開する。
実はHPを調べていると、この脚本はあの横山拓也(iaku)さんが、お書きになったものと書かれていて大いに納得。さすがの筆力。
そして、同時にその面白い不条理な戯曲をリーディング公演として成立させていく演出力。俳優の身体と発声から生まれてくる奇妙な空気が生み出せることはリーディング公演と実際の舞台の間くらいの感覚。劇場内でも時々笑いが生まれ、たくましい大阪の若い男女の夫婦の姿が見えてくる。
後半になるともはや、整形とかそんなことはどうでもよく、生きてそこにいるだけでええんとちゃうか?新たな命を授かることの幸せだけでええんとちゃうか?と思わせながら、でもやっぱり見た目は大事やな!という、「行って来い」みたいな、見た目と中身との間で葛藤する二人の姿がまさにいま生きている私たちの写し鏡なのかも知れへんな!と思いながら拝見した。
オープニングとエンディングの夫婦の配置と姿が印象的。
大阪の芝居はべたべたな芝居が多い中で、こうしたスタイリッシュな演劇の様子は新たな可能性を感じさせてくれるものだった。今度「フキョウワ」の芝居があればぜひ見に行きたい。



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「こまばサクラの園」第34次 笑の内閣(@THEATER E9 KYOTO)作・演出:高間響

東京の渋谷から京王井の頭線で一駅の「駒場東大前」にある「こまばアゴラ劇場」が閉館したのは昨年2024年5月のことだった。平田オリザの父が実家を劇場にし、オリザさんがそれを引き受け、ICU時代から活動していた「青年団」の本拠地となった。
私が初めて「こまばアゴラ劇場」に行ったのは1996年のことだった。当時CMディレクターをされていた山内ケンジさんと仕事の件でお会いすることがあり、その時に今、面白い劇団はどこですか?と聞き教えてもらったのが「青年団」という劇団だった。
調べるとこまばアゴラ劇場という小屋で「冒険王」という演目の公演があることを知り、チケットを確保した。チラシを見ると出演に山内健司とあった!おおおお!これは、あのディレクターの山内さんが出ているのか?と私は思った。だからおススメだったのか?と。公演直前に駒場アゴラ劇場の前にあった喫茶店に入って時間をつぶしていると、なんと出演のクレジットに書かれていた山内健司(ケンジ)さんが、私の後からやって来てコーヒーを頼んでゆっくりと飲まれていた。公演の前にこの人は喫茶店に来て、こうしてコーヒーを飲むのか?と驚いた。そして、山内さんとお会いして、その場であいさつしたままどういうことなのか?と戸惑っていると、山内さんから「もうすぐ公演が始まりますよ!」という言葉が。私は驚愕した!この人は楽屋にいなくてもいいのか!出演は舞台の後半だけなのだろうか!?などと想像し、私は一足先に劇場に入った。実は、青年団には俳優の山内健司さんという方がいて、ディレクターの山内健司さんと同姓同名だと言うことを、遅れて劇場に入って客席に座った山内健司さんを見てようやく悟った。(ややこしいですよね。)その後、山内健司(ディレクターの)さんは、劇作と演劇の演出を始められる。城山羊の会という劇団ユニット名。その時にチラシなどのクレジット表記をカタカナのケンジとして山内ケンジということで(青年団の山内健司さんとは別人の)という注意書きもチラシに書かれていて、今もそれが続いている。
こまばアゴラ劇場にはそうした原体験があり衝撃的な事件として私の中に残っている。その後、何度、駒場アゴラ劇場に通っただろうか?一時期は支援会員にもなり年に数十本の舞台をアゴラ劇場で見た。28年間私が通った劇場が閉館することとなった。実は、笑の内閣を初めて見たのも、こまばアゴラ劇場だった。
2016年の7月「ただしヤクザを除く」という作品。「暴力団排除条例」が施行されて以降の暴力団の組員とそれに関係する人たちの悲哀を込めた悲喜こもごもが描かれたものだった。京都をベースにしている劇団だったので、アゴラ劇場の上にある稽古場に宿泊されたのだろうか?キッチンもある稽古場は出演者や演出家が泊まれるくらいの十分なスペースがあり、アゴラ劇場は地方から来た劇団員たちにはそうしたことも出来るようにという運営をされていた。しかも、年間の上演プログラムも基本、アゴラ劇場が決めていき、公演の質を担保する。きちんと書類を書いて助成金や補助金を申請したりして、極力、劇場と劇団運営で赤字が出ないような工夫をされていた。アングラ演劇の劇団員や学生劇団が手弁当で制作運営をされていたのとは、まったく違う視点で運営をされていた。海外のNPOや民間企業のような合理的な運営をされようとしている方針は演劇界の中でも特徴的だった。
さらには、劇団員同士の恋愛やハラスメント、さらには結婚、出産などに至るまで、とにかくきちんとしようよ、という努力を続けてこられた。このあたりの経緯は平田オリザさんがお書きになっている著書などに詳しい!一時期は多くの政治家の方々も駒場アゴラ劇場に来られていた。そういえば、当時、こまばアゴラ劇場にいらしていた松井孝治さんは現在、笑の内閣の本拠地でもある京都市の市長をされている。これも何かのご縁なのか?・・・・。その当時は、日本の文化政策が大きく変わるのか?と一瞬思ったが、そう簡単なことではなかった。2020年にコロナ禍となり、劇場での公演が極端に制限された。コロナが5類認定となっても客足が完全には戻らず、物価が上昇して、同時にチケット代も上昇した。上昇することで見る本数を減らす人もいたのだろう!結果、劇場や劇団の運営がますます厳しくなってしまっている。同時に、推し活、ファン活、を主体とした新たな業態の舞台も登場して来て、グッズ販売などで黒字化を図るという動きが出てきている。2・5次元の舞台などの隆盛。ルッキズムと言われる時代で見た目のことを言っちゃいけないような空気が蔓延している時代なのだが、現実では、見た目のいい若い男性や女性たちが出演するファン活的な舞台の公演は確実に増えている。
以上のような演劇界の状況を踏まえた上で、この戯曲は創作されている。そして、原作にしたのはアントン・チェーホフの「桜の園」。パリからもモスクワに戻って来た貴族が桜の園である土地を手放すまでを描いたもの。貴族階級が没落していくその斜陽の姿がこまばアゴラ劇場の売却のエピソードと重ね合わせられて描写される。原作の筋を、高間響はそうして、換骨奪胎して要素だけを取り出しまったく新たな「こまばサクラの園」を創作した。
「こまばアゴラの園」とでも読めるかのような具体的な描写がたくさん登場する。最大の違いは貴族階級の浪費によって資金がショートしてにっちもさっちもいかなくなるのが原作。本作は、もしこまばアゴラ劇場が平田オリザの次の世代に引き継がれていたら?みたいな近未来の設定となっている。演劇のカリスマ(平田オリザさんのことだと思うが劇中では稲穂さんとなっている。平たい田んぼから実った子息なので、その意味での稲穂のことなのか?)が不在となり。子息である、劇場運営をしている兄(諸江祥太朗)の経営者としての采配がうまくいってない。そしてパリで散在する同じく子息で妹のオーナー(高瀬川すてら)も日本に戻ってくる。というのも、早めに劇場を売ってその土地の代金をもらって借金を返すというのがいちばん合理的な解決方法であると、元劇団員だった、髭だるマンが今では青年実業家となって経営のアドバイスをしている。最終的に劇場を売ることは出来ないと主張するオーナーと兄。競売で自分たちの資金で買い戻すことを考える。クラウドファンディングを募り、そのための資金を集める。
この舞台を見ていて気付いた。この俳優たちの言葉って、チェーホフの原作からのものもあるのだけど、それ以外の多くの部分が高間響のメッセージなのではないか?ということ。彼が考えるこまばアゴラ劇場やその運営、そして地方劇団への招聘や現地での対応など、さらには演劇界の持っている構造的な問題、2・5次元などの新たな公演の広がりに対する想い、みたいなものがいろんな俳優の口から語られる。これは、実は登場人物はみんな高間響なのではないか?ラストシーンで俳優たちがマスクを脱ぎ取り映画「フェイス/オフ」のように全員=高間響となって、14名の高間響がカーテンコールで挨拶をするのではないか?と妄想した。
俳優たちは高間の言葉を喋っているので、そこには個性はいらない!のだろう。なので、この舞台の前半部と呼んでしまうが、「桜の園」の設定での役を演じている時の俳優たちはある種デフォルメされた存在。静かな演劇の中心地だったアゴラ劇場には似つかわしくないおおげさで、昔の翻訳劇的な芝居が行われる。高間響がMCとして私たち観客の前で喋るように、ある俳優が発声し終わると、まるで会話などがそこにはないかのように、次の発声が行われる。会話をしているというよりもただ高間響の言葉を発声をしているみたいな。
しかし、オーナーであるラネフスカヤは或る意味ナチュラルに発声しているのはどういうことなのか?そして、もうひとり、大学生の役を演じたガトータケヒロの発声もとても自然でナチュラルだった。おおげさな芝居とナチュラルに見える芝居が俳優によって違うことの意味を考えた。それは演出の意図なのか?俳優のチカラなのか?
なぜ、そう思ったのか?という疑問が生まれた理由が舞台後半にある。後半で大きな、まさに劇的な転換が起きる。そのシーンはまさに自己批評言語の表出とでも言うもの。以前、落語の立川談志師匠の独演会を聴きに行った時に、談志師匠が最後の演目をやり終えた時に緞帳が降りてきて観客であるわたしたちが拍手をしていると、その途中で談志師匠が緞帳をもう一回挙げてくれというしぐさをした。緞帳は一回、そこで止まり、談志師匠が緞帳を上まで上げるように言う。その後、談志師匠はいま演じた落語のどこがダメだったのか?ということをその落語の話のそもそもの物語構造なども含めて語りだし、自己批評を始めた。私は、その姿を見て感動した!落語の内容よりも、その劇的な行為に。談志師匠が良く言う言葉に「オレが高座で落語をやっているだろ!その時にもう一人のオレが高座の方でそれを見ているんだよ!」というものがある。本作はまさに高間響の言葉を俳優たちが代わりに語り、その語りを基に、その文脈をもう一度ぶち壊すような構造となっている。まさに「芸術は爆発だ!」である。
舞台の後半部分の最初に俳優たちが稽古着のような服に着替えて登場してくるのだが、その時の俳優たちの発話がとてもナチュラルだったことで、先ほど書いた、おおげさな芝居は演出上の意味があったのでは?と感じさせるのだ。しかし、その課題は回収されはしない。まるでチェーホフ劇の中で登場した拳銃のエピソードが回収されないように。
桜の園の流れとは裏腹に、さらに、物語の流れをぶち壊し新たな展開を創作していく。その自己批評の繰り返しこそがこの笑の内閣の最大の特徴なのかもしれない。と思うのは私だけでしょうか?破壊と創造の繰り返し、創造を批評言語で破壊し、その破壊から再構築し、またそれを批評して破壊する。笑の内閣では、本作の「劇評大賞」を募集しているらしいのだが、その劇評を高間響と笑の内閣が、再度、批評して返してくれるらしい!そうしたすべての活動そのものが本作の構造と同じであり、その繰り返し自身が実は、高間響であり、「笑の内閣」なのかもしれない。そして、そこまでをも演劇的行為としちゃっているのか?恐ろしい。
上演時間100分。11月17日まで。
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「勝手に唾が出てくる甘さ」KAAT×城山羊の会(@KAAT中スタジオ)
作・演出:山内ケンジ
出演:松本まりか じろう(シソンヌ) 岩谷健司 、中山求一郎 湯川ひな 三木万侑加 岡部たかし

本公演は全席完売。しかし、当日券が若干出ているみたい。シソンヌのじろうさんのファンが多いような印象!いつもNHKのコント番組「LIFE!」でのじろうさんの芝居が素晴らしい。シソンヌの相方がじろうさんが舞台で演じることが好きでコンビでやること以上に芝居を優先するんです!とある番組でおっしゃっていた理由がこの舞台などを見るとよくわかる。東京03の角田さんなども含めて、お笑いの世界には俳優としての才能豊かな方がおられる。個性的で印象に残る。おおげさな芝居をせず、しかも高いレベルで芝居をすることが出来るお笑いの芸人さんがいる。
実は、最近、吉本興業の功罪について考える。特に、大阪に戻って感じるのが、吉本流的な方法論がデフォルトになっていて、それがある昭和な時代で止まっていること。そこからの多様性や新たなことなどがなかなか起きにくくなってきているのは、それを良しとして受け入れる、大阪人たちの民度なのかもしれない!そして、新たなことをやろうとする吉本などの芸人たちは結局、東京に行き活動している。これからは大阪の周縁から新たなものが生まれてくるのかもしれない。京都や豊岡などにはその可能性を感じる。そして商業主義的な方法論だけでは生まれないものを、昔の関西は旦那衆が面白がって育ててくれていた。今では、その部分がなくなってしまい、やや人口が多い地方都市なだけではこれからの希望が見えない。その功罪について考える。
そういう意味では、大阪では、本公演みたいなものが生まれにくいのではないか?KAAT×城山羊の会は3年前だったかKAATで上演されていて、その公演にもじろうさんが出演していた。https://haruharuy.exblog.jp/32877457/
そして、再度の登場をされたのは、本公演に出ることに意義や魅力をじろうさんが感じたからではないだろうか?商業的な観点だけだと大きなメリットはない公演かもしれないが、それを上回るような経験が得られるのだろう!この歳(63歳)になって思うのは、対価以上に、その経験によって得られる何か?人間的なるものやココロの栄養なるものに価値を見出す人も増えてきているのではないか?そういう意味ではこの国は成熟して来ているように思う。そうして、じろうさんファンが初めて舞台を見たりして、ああ、こんな世界があるんや、そしてじろうさんはそういうことを積極的にされているんや!ということが見えることも長い目で見るととても重要なことではないか?とこの歳(余命何年か???)になると思うのです!まさに一期一会。
アップライトピアノが置かれており、三木万侑加がその前に座りピアノの演奏が始まる。いきなり歌のシーンから始まるのは見てのお楽しみ。ここは音楽のレッスンスタジオでそこでじろうさんをはじめ、岡部たかしや、岩谷健司さんが一緒に歌の練習をしている。この曲を作曲した若き詩人の中山求一郎も立ち会っている。詩人の中山はピアニストの弟。
このキャストにじろうさんの妻の役の松本まりか。そして、岩谷さん(今回は歯科医の役)の娘の湯川ひな(彼女は詩人のファン)、の7人の芝居!折込に作・演出の山内ケンジさんがお書きになっていたが、まさにこのキャストだから出来ることは何か?どういう芝居をしてもらうのがいちばんいいのか?どういう人間関係を構築すると舞台が面白くなるのか?みたいなパズルを解くように創作されたのではないか?なので、キャストが変わるとその内容も変わる。いちばん純粋な創作のスタイル。商業主義的な事情がたくさんある制約の中で出来ることには限界がある。もちろん、それを面白がれる人もいるかもしれない。制約の中で、その怒りか何かのエネルギーからより面白いものをという「ラジオの時間」(三谷幸喜脚本の舞台で映画化もされた)的な展開が生まれればいいのだが…。
本作では今、しきりに言われるようになって来た、ルッキズムの問題(見た目を話題にすること)やセクシャリズムの問題などに関することが取り上げられている。いまは、そうしたことを口にすることがタブー!みたいな時代になってきている。私もその傾向が急進的になりすぎて、「そういうことを言うな!原理主義!」みたいになっている現状に息苦しさを感じている。それは、誰それの問題ではなくて、時代がそういう風になっていったということ。もちろん世代によっても変わるし、その人のキャラクターによっても変わってくる。岩谷さんはそんなことを気にせずに言うおじさんという設定。それらの設定をベースに会話や関係性の微妙な空気やずれが生まれてくる。笑いが起きる。そこは、まさにシチュエーションコメディである。大きな声で「ごめんくさーい!」と言わんでも、おもろくなるで!と原理的な大阪人たちに伝えたい(あくまで、私見です)。見たらわかる。ウッディ・アレンや、ビリー・ワイルダー的なおかしみもある種の品性のある笑いとしての普遍性がある!その関係性の変化を登場人物のキャラクターにうまく重ね合わせて描かれていることである種のリアリティが生まれ、それが観客を引き込み、その場の空気をダイレクトに感じられるようになる。生で見る演劇とはまさにそういうことなのでは?そして中スタジオという商業的にはキャパの小さな場所で行うからこその空気の共有ということも実は大切なことなのだ!ということが実感として伝わってくる。松本まりかの持つ大人のエロチシズム。(「花様年華」の映画のような。)そして、湯川ひなの持つ若さゆえの魅力、若い男の未成熟なあやうさ、そして大人の男たちの三者三様のキャラから発せられる言葉。ピアニストの姉の弟に対する想い!などがないまぜになって観客に迫ってきます!
そして、歌のシーンは山内さんが以前手掛けておられたコンコルドのシリーズのTVCM(静岡限定)を思い出した。
上演時間1時間50分、11月30日まで。公演詳細は以下、当日券情報も書いてあります。
https://www.kaat.jp/d/shiroyagi2025
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「狩場の悲劇 」二兎社49回公演(@紀伊國屋サザンシアター)
原作 アントン・チェーホフ、脚色・演出 永井愛
(冒頭の画像は公式HPより引用)
キャスト:溝端淳平 原田樹里 玉置玲央 亀田佳明 大西礼芳 加治将樹 岡田地平 ホリユウキ 水野あや 石井愃一 佐藤誓
二兎社でチェーホフが原作の公演をするというのを聴き、珍しいなあ!と思った。いつもは劇作家の永井愛さんのオリジナル戯曲なのだが今回は原作をベースに永井さんが脚色・演出を加えている。見て、やはり永井愛の作風がきちんと反映されるんやな!ということを確信し、作家の個性は簡単に揺るがない!ものだな!と思った。生成AIにはない強固な一貫性。それが独自の、今回で言うと永井愛的な劇世界を作り、二兎社のファンも新たな原作の採用で一貫性を保ちながらも、その作風が多様に拡がっていくことを経験できたのではないか?生成AIはプロンプトなどによって一貫性が大きく変わっていく。まるで自分がないかのように。統計数理モデルで最大値を出力するように設計されているのが現在の生成AIなので、それは仕方がない!
昨日、本作を一緒に見た人(実は、一緒に見たKさんはピンチヒッターで、このチケットを取ってくれたTさんがインフルエンザA型に感染してしまい、行くことができなかった「涙」という顛末。)とその後飲みに行って話したこととつながっていった。人間にも生成AI的な人がいる、ということ。相対的に比較して自分のポジションをその場に応じて変化してふるまう!という人たち。それが、世渡り的にはうまくいくのかもしれないが長い目で見て、それが本当にその人にとってどうなのか?ということが最終的に問われてくるのではないか?みたいなことを話し合った。そこから、自省を込めてアートに触れることによって作家の強固な世界などを知ることにより間接的にでも観客はその世界が広がり、相対的な評価ではなく、ある種、絶対的な生き方を求めていくのではないか?というような話に発展していった。アートの(芸術の)持つ効用とでもいうべきものが確実にあるのでは!と感じたし、永井愛という作家の絶対価値みたいなものを感じることが出来た公演だった。
本作はチェーホフが20代前半に書いた作品らしい!しかも、劇中でセリフで語られるがチェーホフ全集にこの「狩場の悲劇」は収録されていないという言葉があった。どのようにして永井さんはこの戯曲を見出し、舞台化しようと思ったのか?
しかしながら、見ているととても面白いストーリーであることが良くわかる。ミステリー的な要素もありイプセンの戯曲にも似た匂いを感じた。そしてロシアの貴族社会に対してチェーホフが描こうとしているシニカルな視点は揺るがない!それもチェーホフという作家の一貫性ではないのか?
舞台はオウムの声を真似た、溝端淳平が編集者である亀田佳明の書斎を深夜に訪ねてくるところから始まる。設定がいきなり不条理で喜劇的。さすが永井さん、悲劇を喜劇に変えてしまえるチカラがある。そして「夫が妻を殺した」とオウムがオウム返しに言った言葉が、実際にどのような経緯で起きて行ったのかが時間が戻される形で描写される。というのも溝端さんは小説を編集者である亀田さんに以前送っていて、それを読んでくれたのか?確かめたく、さらにはその小説はどうだったのか?ということを聞きたくて夜中にやって来たという設定だから。溝端がその貴族社会で経験したことをベースにこの小説を書いたことが語られる。
ある農奴の娘(原田樹里)は貴族社会にあこがれて、何とかその社会に取り入れられ、結婚を経て、階級を上げていくことを夢見ている。その美貌と純粋なまなざしが貴族階級の人たちの心を動かすのだが、原田さんがそうした社会に染まるにしたがって、その純粋さと奔放さが別のベクトルを持つようになっていく。ここで描かれるのはまさにチェーホフの描く貴族社会の相対的に階級を捉えることしかできないという貧困さではないか?原田樹里は貴族社会の環境に染まっていき、変貌していく。たぶん、余分な設定やセリフが元の原作にはたくさん書かれていたのではないか?永井愛はそれを整理し、物語の骨格だけを残し、換骨奪胎し、永井的な「狩場の悲劇」として再創作したのだろう!劇運びのテンポが速く、これ以上速いとついていけないというくらいのフルスピードで劇世界が進んでいく。そして余計な言葉が時々挿入され(原作にはあるのだろう)それを途中で遮るかのように突っ込みが入り、劇世界のスピードを上げていく。
本作で特徴的なのは溝端が実際に体験したことを物語として再構築してそのストーリーが進行するのと同時に、編集者としての亀田の客観的な視点が入ってくるところ。そこが創作をするものにとってとても興味深いものだった。立川談志師匠の名言「落語をしていると、もう一人のオレが上の方でそれを見ているんだよ!」という視点が提示される。物語の進行を止めてしまうので、それがいいのかどうか?という議論が観劇後の飲み屋で語られた。私は好きなのだが、とっちらかってしまうのでは?という意見も真摯に聞いた。
しかしながら、この設定は実は終盤になると聞いてくる。それは、本編を見てのお楽しみだが、その展開はある意味衝撃的で「劇中劇中劇」的な構造から、創作とは何なのか?という本質的なテーマを教えてくれるようだった。
俳優の佐藤誓の様子がいい!引き画でも強いその姿は印象に残る。そして、体調不良となった門脇麦に代わり、この日は原田樹里が演じた娘役だが、それもとても味わい深いインパクトのある演技だった。原田さんの様子が若かりし頃の飯島直子に似ているように思ったのは私だけ?
上演時間(休憩15分入れて)2時間45分。しかし、あっという間に終わる。特に後半のドライブ感は半端ない。11月19日まで、その後も全国での上演がある。詳細は以下、
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「わかろうとはおもっているけど」贅沢貧乏 (@シアターイースト)作・演出:山田由梨

贅沢貧乏、初観劇。この劇団名の「贅沢貧乏」とは森茉莉さんのエッセイ集のタイトルでもあり、素敵なタイトルだな!と思っていたので、まさか、その名前の劇団が出来るとは!と、びっくりした。https://amzn.asia/d/a71OilT
QRコードを見せて入場するという方式。これだと、絶対にチケットをなくさない。整理番号順に入場。作・演出の山田さんがロビーにいらして、まるでモデルさんのようだった。本公演を見てある「世界観」を構築することについて考えた。舞台全体がある美意識に貫かれている。舞台真ん中に大きなリビングテーブルが置かれていてペパーミントグリーンのテーブルクロスがかかっている。背景には淡いピンクのカーテンのような布に覆われ左右に木のタンスや観葉植物が置かれている。ファッションの仕事をしているのか大場みなみが一人で住む部屋。ウェス・アンダーソン映画の「グランドブタペストホテル」の色遣いにとても似ている。
そして大場さんの部屋にやってくる彼氏の山本雅幸。二人ともビルケンシュトックの定番のサンダルをルームシューズとして履いている。山本さんの赤いセーターと同系色のソックス。大場さんはアースカラーのワンピースにモスグリーンのざっくりしたカーディガンを着ている。大道具、小道具、衣装、そして部屋にかけられている絵画なども含めて、ものすごく可愛くしゃれた世界観がそこにある。そして、この舞台には特徴的な二人のメイドが登場する。劇の開始前から劇場内を歩き回る二人のメイド、シュッとした立ち姿がまるで雑誌の流行通信(https://www.instagram.com/ryukotsushin/?hl=j)や装苑(https://soen.tokyo/)
のファッションフォトのような様子。青みが買ったグレイの長いワンピースに黒いソックス、ブルーグレイのペタンコ靴、白いシャツの襟がワンピースから出ていてアクセントになっている。などなどと詳細に書き起こしているが一見すれば瞬間に理解できること。それこそが世界観の構築なのだろう!劇団のHPのパリ公演時の写真は以下、https://zeitakubinbou.com/archives/works/wakaomoparis
まさにこのページの写真の世界。男女の役割とは?が劇中で問われてくる。大場の友人の佐久間麻由が部屋にやってくる。彼女の元カレがDV(ドメスティックバイオレンス)をふるう男だったらしく、彼女は元カレと別れたのだが、その時の経験がトラウマになっていて男という存在自体を憎んでいる。実は、劇中で大場が妊娠したことを山本に告げるシーンがあるのだが、男女の役割とは何か?子どもを身ごもり産むということはどういうことなのか?そして、親になる男女の関係とはどういうおとなのか?がある種、独特な語り口で発声される。特に大場さんの発声が明瞭で大きな声で発するのは、どういうことなのか?と考えた。ある種の緊張関係から来るものなのか?一方、山本は普通の発話であり、その発声の違いからも男女関係の妊娠という事実に対しての認識の違いをあぶりだそうとしているのだろうか?
世界観が俳優も含めてまるごと一つの美意識で統一されているので見ていて五感が気持ちのいいという感覚がある。これは劇場に居合わせないと絶対に感じられないものではないか?HPの写真からは伝わってこない何かがあると、劇団の過去の上演写真を見て感じた。
本作の題名をロビーでは「わかおも」という風に略されていろんな人のコメントが展示されていた。岡田利規さんの言葉を引用する。「ぼくはこの演劇を見ていた時、うまれて初めて、自分が妊娠するという事態を本気で想像した。」

本作の後半はまさにこの言葉に代表されるような転換が行われる。それを観客は想像し、岡田さんの言葉のようなことを想うのではないか?そこの衝撃がとても面白く、過去のパリ公演などで外国の観客の反応はどうだったのかがとても知りたくなった。本公演では全編「英語字幕」が投影されているので、この公演を見に来た外国人の感想も聞いてみたい。いろんな人がいろんな想像をもって対話するようなきっかけを与えてくれる作品。
そして発話の仕方が小津安二郎の映画をも髣髴とさせ、映画「アメリ」にも通じる世界を感じた。さらには先ほど挙げたウェス・アンダーソンの「グランド・ブタペストホテル」的な世界や、演劇で言うとタニノクロウ氏の感覚にも似た独特の世界が拡がっている。
世界観を決めるのは人間しかできない仕事。生成AIがより発達してもその出力から自分の世界観に通じるものを選択していく時点で、それは人間しかできないもの、創作者しか決められないものとなるのではないだろうか?上演時間70分。11月16日まで、その後、久留米と札幌で公演がある。
作・演出:山田由梨
音楽:金光佑実
出演:大場みなみ 山本雅幸 佐久間麻由 大竹このみ 青山祥子
美術:中村友美 照明:吉田一弥 音響:星野大輔 衣裳:藤谷香子・山口大樹
稽古進行:中村未希 舞台監督:湯山千景
宣伝写真:川面健吾 宣伝美術:柴田リオ 宣伝映像:小堀由起子
プロデューサー:堀朝美
公演詳細は、https://zeitakubinbou.com/archives/news/20250818







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