山崎清介の脚本・演出。
華のん企画と言えば、「子供のためのシェイクスピア」シリーズである。
このシリーズのシェイクスピア劇を見ると、
シェイクスピア戯曲のエッセンスがわかりやすく編集され
イメージと共に定着しやすいように構成されている。
俳優全員で行われるクラップやシンプルな小道具、腹話術の人形、
コミカルな演技など、初めてのシェイクスピアを、
レベルを落とすことなくわかりやすく提示してくれる。
その技量をもった山崎清介がチェーホフをやるという。
ロシア帝政時代の劇作家は、来年生誕150周年を迎える。
今回は、「子供のためのシェイクスピア」とは違った演出で行われた。
手法はオーソドックス。
しかしながら物語のエッセンスを切り取りわかりやすく滋味深い舞台へと昇華している。
丁寧に作られているなあという印象を持った。
先日見た「ちっちゃなエイヨルフ」にも似た。
そういえばどちらもこの、あうるスポットでの公演。
田舎に住む、ワーニャ伯父さん(木場勝己)と
姪っ子、ソーニャ(伊沢磨紀)はつつましく使用人とおばあさんとともに、
この地で働きながら都会に住む父(柴田義之)に仕送りをしていた。
ソーニャの母は亡くなっており、ワーニャ伯父さんは母の兄である。
そこに大学教授の父が新しい妻(松本紀保)を連れて戻ってくる。
そこで小さな事件が起きる。
父がこの土地家屋を処分してみなで分配し新たな生活を送ろうと。
それから家族の間での葛藤が始まる。
結局、大学教授の父は新しい妻とともに都会へ戻っていく。
都会と田舎の暮らしの対比が描かれる。
実際に、地に足をつけて物をつくっている
生産者であるワーニャ伯父さんたちと
自らは何も生まず、都会で生きている父親と若妻。
どちらが正しいとか間違っているということではない。
しかし、このような格差を描くことによって見えてくるものが確実にある。
100年経ったいまでも同じようなことが行われているのだと思った。
日本国内での農業の復権はいまだ実現せず、
何でもかんでも証券化し投機商品にしていったツケを、
いま、支払わなければいけなくなって来ている。
そして証券化してそれを売って来た人々が高額の報酬を受け取り、
地道にモノづくりを行ってきた人たちは不況と言う名のもとに
コスト削減を求められ、実際以下の価値で商品が売られている。
しかし、それでも我々はじーっと耐えながら生きていかなければならない
とワーニャ伯父さんは語る。
ソーニャもそれを受け入れ、ささやかな夢を見ながらも
毎日生きていくということに向き合う。
それ以上でも、それ以下でもない。
ただ生きていくということが、
人生だとチェーホフは考えたのだろうか?
100年経っても人間のやることは何ら変わらないということがよくわかる。