昨年の再演。さらにいいものになっていた。驚く。
迫力のある舞台を見ていると、瞬きをまったくして
いないんじゃないかという錯覚に陥る。
舞台の中へ吸い込まれるような気持ちになる。
「春琴抄」を朗読している立石涼子のような気分。
立石さんの声がいい。サイモン・マクバーニーの舞台はある統一感をもって
ひとつの気持ちのいい流れを作る。
まるで波が押し寄せ引いて行くような。
一体感の中から総合的に見えてくるものを
サイモンは探し続けているのかもしれない。
それが気持ちよさにつながるのである。
琴の音色が気持ちいい。衣ずれの音が気持ちいい。
畳に絹が擦れる音。拍子木の長くなったような木が
畳に打ち付けられる音が気持ちいい。
紙を二つ折りにし、鳥の羽のようにバタバタと飛び立つ音が気持ちいい。
そういった中で舞台での空気が形作られ、
ある調和をもって完成していく。
サイモンの名言がある。
「決めない勇気を持とう。」
演出家としてこの言葉をいうことは大変なことである。
圧倒的な孤独感と戦う覚悟が必要になってくるだろう。
しかし、サイモンはそのことをやめない。
毎日変化し続ける舞台が面白くて仕方がないのだろう。
実験は無限に繰り返されその完成型といったものは、もはや、ない!
数名の俳優が初演と違っている。
変更された俳優の一人に内田淳子がいる。
すっとしたその姿勢から出てくる美しさと仕草の素晴らしさが流れるように続き繰り返される。
彼女は春琴の少女時代の右手と、思春期を過ぎた女になった時代を演じる。
動きだけで演じる内田から発せられる品の良さが印象に残る。
年代に応じて春琴は人形から
仮面をつけた女性(内田淳子)へ、
そして、晩年にかけて深津絵里自身が演じる。
春琴の声はすべて深津絵里が担当する。
子供のころから晩年まで。声色や喋り方を徐々に変えていく。
大阪の道修町あたりの話なので、関西弁である。
関西弁のイントネーションがきちんとできており気持のいいものとなった。
1950年-60年代あたりまでは、関西を舞台にした映画などの関西弁は
本当にきちんと発音されていた。
それが時代を経るに従って徐々に変わってきて正統な関西弁の影が薄れ、
残念であると思っていた。
そんな時にこのような関西弁の発音をされているのを見て頭が下がるとともに、
本来こうでなくてはいけないのだという思いが強くなった。
俳優はそうあらなければならない。
美術は最小限に抑えられ、
スポットライトを中心とした中で光と影を強調する。
最後に出てくるテクストで
谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」の一節が紹介される。
やわらかなろうそくの光の中で行われる嗜虐的な秘め事が
エロチックさを増長させ、その暗さが明治という時代を強く想起させるものになる。
カーテンコールが4回も行われ、観客は立ち見の人も出る超満員。
深津絵里が最後のカーテンコールで涙ぐんでいたのが印象的だった。
サイモンの「決めない勇気をもとう」ということに追い込まれ
懸命に演じた結果がきちんと観客の反応として帰ってきている。
そんなにやりがいのないことはないだろう!
俳優冥利に尽きる瞬間を見た。