文学座の建て替えが終わって、アトリエ公演がここ信濃町に戻って来た。
といっても建て替えられたのはアトリエではなくその前の事務所&稽古棟。
それまでは、吉祥寺シアターをお借りしての公演が続いていたが、
このアトリエの親密さとシズル感は何物にも代えがたい。
今回はウージェーヌ・イヨネスコの原作「犀」の上演。
翻訳は中村まり子。演出は松本祐子。公演チラシにこう書かれていた。
1960年10月、東京・文学座アトリエ、日本初演。
2009年4月、文学座アトリエを再び「犀」が駆け抜ける!と。
当時はまさに60年安保で反体制ブームが沸き起こっていた頃。
アバンギャルドな表現が前衛という名のもとに
世の中で注目されていたと聞く。
では、現在はどうなのか?前衛的なるものの価値がわからなくなり、
何をもってアバンギャルドなのかという時代である。
価値観が多様化しすぎて、この方向のこの場所にあるものというように
嗜好や表現方法が細分化されオタク化していき、
その中で数少ないマニアだけが集っている状況。
この閉じられた状態が危険である。
60年代のアバンギャルドは少なくとも外部に開かれており
奇妙なものとして眉をしかめながら同居していたような気がする。
その混沌とした状況に意味があったような気がしてならない。
演劇でもその試みは可能か?ということをまさに今回の舞台では実験した。
ということになるのだろうか?考えすぎか?
舞台はあるコーヒーショップみたいな場所での会話から始まる。
若い男二人と、老人二人が別々のテーブルで別々の会話が同時進行する。
青年団みたいだなと思った。
初演当時はかなり斬新な風景だったことだろう。
すると、大きな音が聞こえてくる。振動音のようなもの。
犀が道を走りまわっているのだということがわかる。
そしてその不条理さを抱えたまま舞台は進行していく。
犀がときどき舞台の周辺で大きな音を立てる。
人々は不安にかられながら毎日を過ごす。
少しづつ、人々が犀に形を変えていく。
まるで狼男の変身のように。
マイノリティが徐々に変化していく。
多くの人々が犀に姿を変え始め、最後には人類として一人の男だけが残される。
他のものはみな犀になっている。
男はその孤独感から気も狂わんばかりになる。
マイノリティがマジョリティになると社会の常識も変わるのだということが伝わってくる。
社会に対する一種の寓話である。
それを通じて考えさせられることは大きい。
犀の集団が道を駆け抜けるシーンを想像すると
ILM(インダストリアル&ライト&マジック)のCGを思い出す。
メルセデスのTVCMで以前、犀の集団が高速道路を駆け抜けるというシーンがあった。
あのCMの根源にはこのイヨネスコの「犀」があったのだろうか?
ILMはこのときの手法を映画「ジュマンジ」などで開花させる。
また、今回の舞台で特筆すべきは照明である。
LED照明が使われている。
最近、このLEDの照明を使うことが増えてきている。
小さくて電力をあまり使わず光量が大きい。
ただし、いまのところまだまだ値段が高いという欠点があるが、
近い将来主流となっていくだろう。