海外の現代戯曲を、新進気鋭の演出家が舞台化する、
シリーズ・同時代(海外編)のひとつ。
今回はドイツの劇作家デーアー・ローアーの1992年の作品。
演出はチェルフィッチュの主宰でパフォーマンスを行い、
同時に、小説の執筆などでも有名になった(何せ、大江健三郎賞受賞ですから。)
岡田利規。
岡田の前作はシアタートラムで行われた「友達」。
このときは、安部公房の原作を独特な演出で解体していった。
今回の舞台を見てその思いをさらに強くしたのだが、
岡田利規は劇作家というよりも
現代アーティストに近いのではないか?と思った。
身体を強く意識させる現代アーティスト。
マシュー・バーニーという現代美術家がいるが、そのような世界を想起させる。
岡田は決して大衆に対してわかりやすいものを行おうとしていない。
それが、観客に届くか届かないかは別として、実験的な手法に次々と挑戦している。
劇場に入ると驚くのがその舞台美術である。
すべてのものが天井から細引きのような白い紐で吊られている。
最もヴォリュームがあるのが窓枠である。
たくさんの窓枠がお互いに寄り添うように関連するようにつなげられ、吊るされている。
その数は数百にのぼる。
窓枠が左右10メートル奥行10メートルくらいの広さにびっしりと吊るされている。
これはベルリン在住の日本人アーティスト塩田千春の仕事である。
彼女は以前、横浜でこのような現代アートの展覧会をしていたと、
たまたま隣にいらした演劇批評家の水牛さんに伺った。
あの窓枠はベルリンからもってきたということを新聞記事か何かで読んだ。
ベルリンの街のイメージが現代アートで再現されている。
頭上、数メートルに吊るされたその下は真っ黒でフラットでシンプルな舞台。
左右に置かれた照明機材もむき出しである。
その下で俳優たちは演技をする。
おどろおどろしい話が、独特な棒読み的なしゃべり方で語られる。
吹越満演じる父親とその妻広岡由理子。
この夫婦には二人の娘がいる。
長女の柴本幸と次女の内田慈(うちだ・ちか)。
父親はパン屋なのか奥でパン生地をこねている。
その様子が奥のテーブルの上に置かれた隠しカメラ?で撮影されており、
その様子が、天井から吊るされている1台のモニターに映し出される。
最初、窓枠のひとつと思ったものが液晶モニターであった。
今後、こういった液晶モニターのさらなる利用が
現代演劇で増えてくるのだろう。
父親は長女と関係しており、長女は子供を身ごもる。
さらに次女とも関係しており、次女も同じく子供を身ごもる。
近親相姦的な構図が淡々とした語り口で語られ、
クールなだけに恐ろしい、そんな気持ちになる。
しかし、それはどこか虚無的で記号的。
岡田利規らしく身体の動きを反復しながら語るのだが、
どこかひとごとのようでもある。
俳優たちは適度に距離をもって配置される。
岡田はこの構図のすべてを現代アートのパフォーマンスとして見せたいのではないか?と思った。
塩田の美術に刻々と様々な形で光があてられ、
その現代美術作品が様々な魅力を持って浮かび上がってくる。
その意図はラストシーンに集約されていたような気がする。
娘が拳銃を突きつける男(鈴木浩介)はその拳銃を突き付けられる。
男の頭上に一つの真っ赤なリンゴが頭上から吊るされたまま降りてくる。
椅子の上に立った、内田は激しく舌を出したり入れたりする。
「べー!」となんども繰り返す。
同じく後方では吹越が同じ演技を繰り返し
その舌の出し入れが内田の頭上に吊るされた液晶モニターに映し出される。
独特な構図が印象に残った。
このラストシーンは印象に残った。
次回は、岡田自身の戯曲の舞台を見たい。