日仏交流企画。
フランスの劇作家、ミッシェル・ヴィナヴェールの戯曲を平田オリザが大胆に翻案したもの。
折り込みのリーフレットに演出のアルノー・ムニエはこう書いている。
「この舞台は、グローバリゼーションの喜劇として夢想したものだ。
それによって、ますます複雑化し、暴力的になりつつある経済的現実を理解して、
そのことについて地球の両端からともに微笑することを考えたのだ。」と。
この言葉は舞台を見ると深く納得する。
舞台は日本の中堅、便器メーカー。
創業者がオーナーである典型的な日本の中堅企業である。
その便器メーカーに対して、フランスのファンドがやってきて、
会社を合併して世界的な企業に呑み込もうとする。
大きな家具メーカーで、
便器の部門はその一部である。
ここで様々な確執が描かれる。
親子の跡目相続の問題。
そして、海外との取引の問題。
もはや、一国内で治まって、閉じられた取引だけで商売が成り立つ時代ではない。
経済圏は完全に国境がなくなり、どこで生産し
どこで販売しても構わないという現実がそこにある。
そのような環境下で行われることは非情なサバイバルゲームである。
ゲームであるからこそ不条理なことが多発する。
ゲームに勝つか負けるかは時の運も大きな要因。
最高度の能力を持った人たちは環境の変化にびくともしないだろうが、
そうではない大多数の人々はその変化に翻弄される。
そして、この舞台ではその圧倒的多数派の人々が
どのように変化していくのかが時系列で描かれる。
突然、解雇通告をされる社員。
そういう人に限って会社に忠誠心が高く、地道にやってきた人たちである。
会社側は偽善的に彼らの貢献を讃えながら、彼らを戦力外通告していく。
「いったい、どっちやねん!」と思う。
新しい環境になることによって企業はどのように変化していくのだろうか?
それが見えないまま、示されないまま、人事のゲームに人々は翻弄される。
まるで将棋やチェスの駒のように。
これは組織というものが持ってしまう特性である。
組織と個人は時にして折り合わない。
平田オリザが、常々語っているテーマである。
その極端な例が戦時での、国家と個人である。
今回の舞台ではグローバリゼーションと経済不況という厳しい状況の中、
どのように、組織は、そしてそこにいる個人は、変化していくのかということが、
強いアイロニーを込めて描かれている。
人間を人間として捉えられない社会。
人間は歯車の一つでしかなく、会社の都合によって
いつでも自由に異動される人々はどのようにして生きていくのが幸せなのだろうか?
ということを突き付けられる。
本当に身につまされる舞台だった。
明日は逆転の構図になるかもしれない、という、戦国時代のような現実がここにある。
この原作が1970年に書かれたことに驚き、
それをさらに現在的に翻案した平田オリザの技量に感服した。
印象的だったのが、アジア的なるものと二元論的なるものの対比が語られるところ。
悪を許容しながら、それを飲みこみながら生きていくのが、我々アジア的なるもの。
それは日本神話やギリシア神話の中で描かれるものと同じようなものである。と。
そこに、何らかの光明が見出されるのでは?というかすかなメッセージが聞こえてくる。
ひらたよーこの語る日本神話が舞台にアクセントを添えた。