池田晶子没後に出版された、サンデー毎日に連載されたものをまとめたもの。
池田晶子はこれを書いているときに、死へ向かって近い将来、
自らの生がなくなるということを知っていたのだろうか?
死とは存在がなくなること。
生を考えることは、死を考えることから見えてくるという
池田晶子の説は論理的でわかりやすい。
本書は、池田がいつもいっている真理
あるいは本質的なものについて誰にもわかりやすく書かれている。
真理や本質とは変化するものではない。
ただその理解の仕方の深度が深まるのである
ということを書かれておりおおいに納得した。
池田晶子はこうして学生時代から哲学を通じて、
真理・本質について考え続けている。
そこには、物質的なものや金銭で交換可能なものは何もいらない。
命は、お金では買えないことが、
そのことを端的に表している。
そうして本書を通じて本当に大切なもの
本当の幸せについて考えることになる。
日常的に暮らしている人で池田晶子のような考えをもって
暮らしている人は少ないだろう。
それが家族の死や自らの病気などのちょっとしたきっかけによって
その価値観が揺らぎ、そこから初めてそのようなものごとの本質を
考え始めるというのが大半だろう。
しかしながら本書はそういった問題がなくても
読み進んでいくと自然にそのことについて想像し考えるというような
道標が刻まれている。
池田晶子の確信犯的な行為なのか?
それとも本人にはそのような意識がなく、
自らがいつも考えているよしなしごとを記したものなのか?
「方丈記」にもにた思索の記録?
「思索する」ということを英語でspeculateというそうである。
ここには「賭ける・投機する」という意味が含まれている。
池田はこのことが英語の語源で別の意味があることに驚き考え続ける。
その思考の過程が淡々と記述されている。
そうして池田の考え方を読んでいるものも受け止め、納得共感する。
生きるか死ぬかの選択が本質的な意味で思索すること。
そういう意味ではイチかバチかという選択が生きていても必ず起こりうる。
したがって、このspeculateという言葉は
「思索する・賭ける」と両方の意味を併せ持つのでないかということに思い至ったそうである。
言葉についての池田の見解が面白い。
結局、わたしたちがものを考えるのは言葉によってであり、
その言葉をないがしろにしてはきちんと考えることが出来ない。
そのときにこの言葉は何故この言葉なのか?
この言葉の成り立ちはどういう意味があるのかを考えることは
本当の本質的な意味で意義のあることだと思う。
40代後半になって、僕自身もようやくそうかもしれないなと感じられるようになった。
池田は、同時に歳をとることの素晴らしさについても記述する。
肉体的に若くて健全な状態は人生の瞬間である。
そうして肉体が以前ほど自由にならなくなり、
そのことによって自由にならなくなる肉体ということを経験し、
さらに経験値を含めた想像力が大きくなる。
そこから考えることは若い頃の何倍も豊かな世界が拡がるということが納得できるのである。
池田晶子の寿命を超えてわたしは、いまだに生きている。
春夏秋冬そして春と季節の順番で語られている
本書の季節と自然にたいする記述が素晴らしい。
けっして情緒的ではない言葉から醸し出される
えも言えぬ描写が心に沁み込むのはどうしてなのだろう?