近藤芳正がハムレット役。
何とこのハムレットは若ハゲで、くよくよと悩む。
彼は、こっそりと「ハゲレット」と呼ばれているようである。
「ハゲ」を中心としたストーリーなのかと思って見に行った。
そう、ひとごとではない。
しかし、意外や意外!
ストーリーはシェイクスピアの戯曲に忠実だった。
そこに、鈴木聡ならではの、批評精神に富んだ
台詞とギャグが散りばめられる。
基本の翻訳文は小田島雄志のものを使用している。
シェイクスピアの翻訳はこれまで、たくさんの翻訳家が挑戦している。
明治の時代からだと、口語訳をはじめて行なった坪内逍遥。
戦後、福田恒存、小田島雄志。
そして、松岡和子、河合祥一郎などがそれに続く。
鈴木氏は小田島訳の重厚で修飾華美なシェイクスピアの翻訳と、
鈴木氏ならではの軽妙で、いかにも現代風な台詞回しとの
落差をつけたかったのだろうか?
そこで、敢えてその違いを際立たせたいがために
小田島翻訳を選んだのだろうか?
舞台冒頭から、薄毛に特殊メイクを施された
近藤芳正がおどおどと登場する。
堂々とし朗々と語るハムレットのイメージがいきなり崩れる。
その彼が、「何とかなんだよねー。」と
現代のわかりやすい言葉で話しかける。
橋本治が「枕草子」を桃尻語訳したような感覚。
橋本治は、清少納言の言葉を、
女子高校生の喋り言葉に置き換えた。
この舞台はまた、シェイクスピア四大悲劇と呼ばれた「ハムレット」を、
喜劇にしてしまうことは可能なのか?その試みでもある。
演出の山田和也は三谷幸喜の舞台の演出を何度となく行なっている。
喜劇の演出には定評のある演出家だ。
ベンガル演じるところの国王の演技にそれは象徴的に現れている。
ベンガルは、気のない感じで、デフォルメされた演技を繰り返す。
悲劇の中で行なわれる喜劇が、
物語の骨格からずれてしまっているので、
演技と言葉との相乗効果で、ものすごく表層的な笑いがおこる。
関係や状況が面白いというものではなく、
そこは「見えるもの」などを中心としたような簡単な笑いが繰り返される。
この表面的な笑いは徹底的に批評的である。
現代の日本の「お笑いブーム」のように。
本当に面白いと思って見ている?と舞台は観客に問いかける。
物語は必然的に、悲劇の方向へ向かっていく。
言葉が軽くても、物語の悲劇へのうねりは覆せない。
シェイクスピアの戯曲に忠実だからそれは必然のことである。
哀しい誤解と運命のもとに、オーフィリアがまず死ぬ。
決闘のシーンで母、ガートルードが死に、
オーフィリアの兄、レアティーズが死に、そして、ハムレットが倒れ、
クローディアス王も死ぬ。
と、思ったらここから劇的な構造の展開が行なわれる。
これを見て、観客たちは、あ、「笑いってこういうことなのね。」
と知ることになる。
鈴木聡はここで「笑い」に対する本質的なことを僕たちに
問いかけてくれる。
そう、「笑う」という行為と一緒になって。
舞台と観客席が一体となる。
それを敢えて行なったのかどうかはわからない。
ただ、僕が思ったのは、小田島氏の翻訳言語と、
現代の喋り言葉の対比。
表層的な、乾いた笑いと、
一体感をともなう表層的ではない笑いの対比、
を見せてくれた。
そのことが僕に、改めて「笑い」のことを考える
きっかけを与えてくれた。ありがとうございます。「うっ!」・・・。(暗転)