これを何と学生が演じている!ということに驚く。
イングランド北東部にハル大学という学校があるらしいが、
そこの先生と生徒で作り上げた平田の戯曲を英語で上演するという。
舞台セットは青年団で行われた「カガクするココロ」と全く同じ。
日本人の役を、英国人学生たちが演じる。翻訳劇である。
日本人がシェイクスピア劇を日本語で演じるのと同じこと。
彼らはお互いのことを日本名で呼び合い、
「英語が出来ないからアルバイトが・・・」などというセリフを
英語で語っているシーンなどで笑いを誘う。
その対比の中で見るととても興味深い。
俳優のレベルの差はあるのだろうが、
それを差し置いても国民性や民族の違いのようなものが見えてくる。
と、同時に普遍的で変わらないものもある。
人間としての、男女としての感情の普遍性を描いているところなどは
誰が演じているかは、もはや、気にならない。
その会話の始終を見つめ続けることになる。
一番大きな違いは会話の間。
平田演出とティム・キーナンの演出では間が随分違うんじゃないかなと思った。
平田演出の方が、間が長い。
切れ切れに会話が続くのが青年団の特徴なら、
ティムの演出は流れるようにセリフが続いていく。
聞いていて気持ちがいい。
が、それと同時に、セリフの外にある意味を考える間もなく
次の会話に続いていくような印象もあった。
さらに俳優の(といっても学生なのだが。)リアクションが豊かである。
おおげさとでも言うのか?挨拶するときは必ず笑顔が交わされる。
日本では笑顔で挨拶が交わされるのはよっぽどの時である。
それは、海外に行ったときにも強く感じることである。
ということは、欧米人は生活の日常として挨拶をするときには
自然に笑顔になって目を合わせるということが身体的に確立されているのだろう。
平田演出の青年団の芝居の淡々とした中に
情緒が漂う舞台ではない何かがそこから表出する。
また、会話の発話の仕方も英語で喋っているからだろうか
アクセントを意識して喋る言葉が、
日本語の青年団の舞台と比べて抑揚があり劇的な感じがする。
小津安二郎の映画をハリウッドなどがリメイクして
英語で西洋人の俳優が演じるとまったく違った味わいになるだろうなということを想像した。
この舞台にはいくつかの年齢の違った俳優が本来出て来る筈なのだが、
学生が演じていることで年の差がわかりにくい。
日本人は特に年齢差などがコミュニケーションの基準になる民族である。
以前、「カガクするココロ」を見た人じゃないと混乱する場面もあるかもしれない。
でも根源的な人間群像は変わらないのだな
ということも同時に教えてくれる。
本公演は友人の娘のKちゃんが大学合格をしたお祝いに
演劇を一緒に見ようと誘ったものだった。
18歳のKちゃんは目をキラキラ輝かせてこれからの大学生活や
演劇を自由に見ることの出来る生活などを想像しワクワクしており、
食事をしながらも知らないことがあるとメモを懸命にとっていた。
知的好奇心の塊のようなKちゃんだった。