青春時代ってこんな感じだっけと、思い出しながら見ていた。
劇場内は若いカップルがたくさん来ていた。
浅野にいおの原作は読んでいないけど、
浅野さんの別の漫画「おやすみプンプン」を読んで
この人はただものじゃないと思った。
だから、「ソラニン」自体も決して明るくハッピーな予定調和的な物語じゃないだろ!
と思って見た。
見たかった一番の理由は、宮﨑あおいが出ているから。
彼女がギターを弾きながら唄う。初めての挑戦。
篤姫」とも「少年メリケンサック」とも違う宮﨑あおいの姿があった。
自然体で、ナチュラルで、少ししっかりした宮﨑の姿がある。
宮﨑あおいの彼氏役で高良健吾が出ている。
二人が彼女の部屋で仲睦まじくいちゃつくシーンが魅力的だった。
映画は、彼女が、あのころの思い出を語りながら今を生きていくという構造。
時間が交錯しながら物語は進んでいく。
学生時代の二人(宮﨑と高良)、そして少し前の二人。
そして現在が同時進行的に紡がれる。
若いころの夢を持ち続けることの困難さや将来に対する漠然とした不安が
ますます拡がっている時代になにが出来るのか?
その不安と若者たちの夢と人々のつながりをゆるーく描いているのが
この映画の特徴かもしれない。
決して劇的になったりせずに漠然とした不安を抱えながらも
自分を保とうとして生きている。
それが、現在のリアルな青春群像なのかもしれないな?と思った。
と同時に、その弱弱しさから来るものに共感し付き合っていくことが
出来ないとつらくなってくる。
バンドで食っていくということを考えた
音楽好きの若者は少なくないだろう。
そして、彼らはそのまま趣味として音楽と付き合いながら暮らしていくのが現状である。
その具体的な例としてレコード会社で働いているARATAが印象的な役柄を演じている。
就職する前にバンドをやっていて素敵な音楽を作っていた彼も
就職して、仕事としての音楽を作っている。
うっすらと虚無感が漂っている。
しかし、本当にそうなのか?
人間は過去の思い出だけで生きていけなんじゃないかな?とも思う。
そういう意味で、この映画は昔はよかった的な、虚無感が全体を覆っている。
宮﨑あおいがいくら
ギターを懸命に練習してライブに向けて猛特訓しても、その虚無感は消えない。
青春ってそんなものじゃないだろう!と僕なんかは思うのだがどうだろう。
なんか止むにやまれぬエネルギーを発散する場所を探し求めて生きることが
若者の特権なんじゃないだろうか?
と思うとともに、若者の感じ方が以前とは変わって来ているのか!
と驚きもする。
みんな、そこまで老成しなくてもいいだろうと思いながら、映画を見続けた。
三木孝浩監督の想いはどこにあったんだろう?
高橋泉の脚本の想いはどこにあったんだろう?
予定調和的ないい感じの映画を作っていればいいという問題ではない。
原作を読んでみよう。