井上ひさしさんの訃報を聞いたのは、
この舞台を見に行こうとしたその日の朝だった。
永井愛さんは新国立劇場の芸術監督の去就問題に対して
理事としてその決定プロセスに納得出来ないことがあるとして、疑問を呈していた。
そのことについて、劇作家の立場から井上ひさしさんも
発言されていたことを思い出す。
そして、その井上ひさしさんの三部作がいま、新国立劇場ではじまった。
このプログラムを組んだのは、今度退任される芸術監督、鵜山仁である。
井上ひさしの新作をこれ以上見ることが出来ないのは本当に残念。
彼の描く人物評伝劇の本当に面白いことといったらない。
永井愛は、先日起きた、新国立劇場の芸術監督の去就問題を舞台にした。
あれから2年の月日が経っている。
永井の中でくすぶっていた想いがこうして舞台になった。
しかし、その問題はとても大きな問題なんだなあ、と舞台を見て思った。
自らに問うものがあまりにも大きすぎて、その大きさを描くのに
永井愛得意のコメディに仕立てることはなかった。
これは、コメディではなく、どちらかと言えばカフカの戯曲のような
不条理なラビリンスに陥ったかのようなものになった。
官僚主義を批判した演劇である。
と朝日新聞などで取り上げられ、劇作家の先輩たちに
そのときに体験したことを舞台にすればいい!と書かれてあった。
永井はその言葉を受けてこの戯曲を書き始めたのか?
それともうちなるものが熟成して書かざるを得なかったのか?
本当のところはわからない。
ただ、この去就問題で様々なことに永井が直面し悩み考えたことは事実だろう。
直面した事実は自らの信念とはまったく違うことだったのかも知れない。
永井はその想いを「インテグリティ」という英語の言葉に置き換えて
織り込みチラシの中で語っていた。
「インテグリティ」をなくしてまで行うこととはいったい何だろう?
かたり市という架空の街でのアート行政にまつわる人々の物語である。
文部科学省から天下った女性理事長(銀粉蝶)と
市役所から派遣したキャリア(大沢健)が管理側にいる。
その下で働いているこの道三十数年の現場の役人として、でんでん。
若手の職員として内田慈。内田は仕事以外では自らの小劇団を持ち作演出をしている。
かたり市の芸術監督は自らもアーティストである山口馬木也が演じている。
彼の発案した「かたりの椅子」プロジェクトが進んでいた。
市民から提供された不要になった椅子を
アーティストが新たな椅子に再生してそのアート作品を街中に展示設置して
市民のみんなに利用してもらおうというもの。
しかしながら理事長は自らがコンタクトしたフランスのカンパニーの
招聘をしたいと考えている。
かたりの椅子のプロジェクトは、その安全性なども含めて再考した方がいいのでは
という前提で大沢とともに根回しを始める。
その様子を、外部からこのフェスティバルだけのために雇われて来たアートプロデューサー
竹下景子の視点からその一部始終が、語られる。
どうみても一方的な展開で対話というものが成立せず、
理事長の思っている方向へ進めていくというベクトルのみが粛々と実行されていく。
本当に市民のためのフェスティバルなのか?
実行委員会は実際に機能しているのか?
委員に対しては、立場や地位を用意する代わりに、
本当の想いや決定プロセスが骨抜きにされているのではないか?
名誉職みたいな立場の人々が何故、実行委員に名を連ねているのか?
ここには、日本で行われている様々な文化芸術行政の実態みたいなものが
映し鏡のように描かれている。
そして、これはおかしいと思う人がいる筈なのだ。
劇中で出て来たセリフで「加害者は実は被害者なんです。
自分の大切なことを見て見ぬふりをする。そんな人が実は被害者です。」
そのときに永井の書いた「インテグリティ」という言葉をもう一度思い出さなくてはならない、
と自省を込めて思った。