世界を批判的に受けとめるために。
という副題が書かれている。
京都造形芸術大学で教鞭を取っていた彼は49歳で自死した。
何故、彼は死を選ばなければいけなかったのか?
鬱病だった彼は高島平の団地から飛び降り自殺をしたそうである。
2007年。
それ以前に僕は山形国際ドキュメンタリー映画祭で佐藤真さんをお見かけしている。
映画祭の関係者として、毎日会場に足を運ばれ、
ゼミ生?と思われる若い学生たちと香味庵などでお酒を飲んだりしているのに遭遇した。
品のいいオジサンというのが佐藤さんに対する第1印象だった。
学校の先生という雰囲気がぴったり。
決して派手ではなく、淡々と日常を切り結んでいこうとするような
チカラを持った方のような気がした。
本書はその佐藤真が全力をかけて書いた「ドキュメンタリー映画」に対する、
長い長い論考である。丁度01年前の2000年に脱稿している。
様々な角度から佐藤はドキュメンタリー映像のことに光をあてる。
「ドキュメンタリーは映像表現による現実批判である」
ということをまず佐藤は示す。
映像を使った批評言語を獲得することがドキュメンタリーを制作することなのか?
映像には意識下の無意識の情報が映し出される。
そのどこを抽出しどのように編集するかによって現実の見え方は大きく変わる。
その視点がドキュメンタリー作家の作家性というものにつながっていく。
だから、ドキュメンタリーを日常的に制作している人々には普通のことだが、
ドキュメンタリーは客観的で公平中立なものである!
ということ自体が間違っており、
ドキュメンタリーはそれを作る作家によってそれぞれのものになり、
さらにその対象との関係性によっても変わるのだ!
とだからドキュメンタリーとは極めて主観的なものである、と。
本書は、このドキュメンタリーに対する論考が書かれた序章からはじまり、
佐藤は8章の章立てをし1800枚近い原稿量となった。
第1章 暮らしながら撮る、
第2章 言葉と別の意味を生む映像、
第3章 他者の眼差しと撮られる側の戸惑い、
第4章 私的小宇宙の広がり、
第5章 観察者 言葉からの解放、
第6章 挑発者 暴力装置としてのキャメラ、
第7章 時代の無意識 メディアの読みかえ、
第8章 イメージの収奪<見る>ことの権力構造
ここでドキュメンタリー映画の歴史とともに
何人かのドキュメンタリー作家が取り上げられる。
佐藤は彼らの作品に対して綿密で丁寧な批評を行う。
まるで、キャメラをペンに持ち替えて、
彼らのフィルムに対して批評的に語ることを行っているよう。
批評行為自体がやめられないということが、
生まれながらのドキュメンタリー作家なのかもしれない。
作品論と作家論が常に並行して語られるのが、特徴的。
ドキュメンタリーの父と言われる、
ロバート・フラハティを皮切りに、
小川紳介、チャン・ヴァン・トイ(ベトナムの作家)、
亀井文夫、クリス・マルケル(フランスの作家)、
ヴィム・ヴェンダース(ドイツの作家)、
ジョナス・メカス(リトアニア出身の作家)、小川プロから出た、福田克彦、
そして僕の大好きな作家、フレデリック・ワイズマン(米国の作家)、
ロバート・クレーマー(米国の作家)、大島渚、土本典昭、
などが取り上げられている。
ここで挙げている作家たちが、もちろん全てではないが、
彼らの軌跡を追うことによってドキュメンタリー映像の多様性と個性が
見えてくるのもまた確かなことである。
彼らと彼らの作品について佐藤真が考え続けてきたことがここに書かれている。
最早、彼の講義や講演を聞けない今、
佐藤真とドキュメンタリー映像について
じっくりと理解したい人たちのための貴重な文献である。