この映画を何と言えば言いのだろうか?
石川寛が全身全霊をフィルムに込めた作品。
こんな映画なかなか作れない。
職業映画監督作品というものがあるとしたなら、
全然違う話法で作られた映画である。
見ているだけでスクリーンに惹き込まれ、
見終わるとへとへとになる。そんな映画。
「私小説」に対して「私映画」と呼ばれるような映画があるが、
それとはまた違う。
この映画は石川寛の内面を映像化していったという意味では
「私映画」かも知れない。
しかしながら、この映画自体が、石川寛の体験ではない。
ただ彼のココロの軌跡ではある。
テーマが極細の部分を描いているので、
「私的なるもの」を描いただけの映画なのでは、と一見思うのだが、
その細部を突き詰めると、
普遍性を持ち得るという稀有な例としてこの映画は成功した。
今回は、前作の劇場公開映画「tokyo.sora」と違い、
自ら撮影までやっている。しかし、見て納得。
カメラの対象の捉え方が微細すぎてリアルタイムで
これを別のカメラマンに伝え続けることは大変なことかも知れない、と。
フィルムの中の光は、順光を徹底的に拒否している。
光は室内では基本的に、窓外からの光。
必然、多くの室内ショットが逆光になる。
屋外のロケーションでもそれは徹底される。
光が差し込むシーンは斜光。それも太陽がかなり低い。
人物の半分は影になっている。あるいは曇天や影を好む。
この映画で、フィルムの定着トーンは一定で揺るぎがない。
ものすごいエネルギーと時間が必要になるだろう。
しかし、映画を見るとこの必然性が理解できる。
はかなく壊れてしまいそうな関係。
ぎりぎりのところでバランスを取っている。
ささいなことでその関係が溢れてしまいそうだったりすることを
常に感じさせられながら、僕たちはスクリーンに向かい続けることになる。
そのことを映像と時に大きく誇張された
同時録音の音だけで表現しようとしている。
想像するだけで気の遠くなるような作業である。
人物が全体的にシャドウになっているので、
この映画をビデオで見るのは人物がつぶれてしまい、
微細な表情の変化がわかりにくくなるかもしれない。
映画館のスクリーンをオススメします。
また、フレーミングも特徴的である。特に空の捉え方が。
人物はフレームの下の方に配置され空の占める面積が大きい。
まるで、満たされない自己の内部を解放するかのように。
物語はいたってシンプル。
17歳のときに同級生だったユウ(宮崎あおい)とユースケ(瑛太)が、
お互いの気持ちを伝えられず、姉の事故によって関係が絶たれる。
17年後のお互い34歳の時に再開。
ユウ(永作博美)とユースケ(西島秀俊)がCM音楽だろうと思われる音楽録音で再開。
そして、お互いの気持ちを・・・。というもの。
それだけのことが、1時間44分の間、
全く退屈もせず飽きもせずにスクリーンで展開される。
これは、ある種の奇跡である。
宮崎あおいファンの僕が、この映画での
宮崎あおいの撮られ方は完璧だと思った。
そして、そのことは、永作博美や、小山田サユリ(ユウの姉役)にも言えるだろう。
石川寛は、ある種類の女の子を撮ることに対する稀有な才能を発揮出来る人である。
劇場は「女の子」が大半を占めていた。
ある種、1970年代から80年代前半にかけての「少女マンガ」である。
その時期、「少女マンガ」は、独特な世界を構築し、
新しい恋愛マンガのジャンルを確立した。
その世界観がまさにこのフィルムに定着している。
昨年公開された「NANA」とは全然違う世界観なのだ。
単館公開だった映画が、口コミで全国に拡がった。
これは、まさしく映画それ自身が持つ強い魅力のなしえた結果なのだ。
石川寛の次回作は「おおおお。これはまた、大変だなああああ。」と想いつつも、
強く次回作を期待している自分が同時に居る。確かに居る。
この映画のチケットを贈ってくれたMさん、本当にありがとうございました。

