印象的だったのがF/Tのシンポジウムで
司会をされていた東大の教授である内野儀先生が
ショルダーバックを肩にしてこのイベントに参加されていたこと。
前にも書いたが、ここで一緒にこのパフォーマンスに参加することによって
何故か親近感が沸き嬉しい親しい気持ちになった。
それは内野儀さんの身体の形や動きから来るものも確かにあったろう。
その身体から発するものを、観客席ではなく参加者として見られると言う
独特のねじれの構造が面白かった。
250の質問にみんなが懸命に答えている。そのことを同時に体験する。
これだけたくさんの質問があると嘘をつき続けることの方が
逆にしんどいプレッシャーとなるだろう。
人間とはそういうものじゃないか?
ある質問に対して反応するヒトの姿を見て、反応は違えど、
同じ人間であるというフラットさが見えてくる。
と、同時にこれらの質問には今そこにいる人々の格差も照らしだす。
例えば月収の話。
月収が20万以上の人は右へ、50万以上の人は左へ、
月収が20万以下の人は真ん中へ。
質問に応じて自分の身体を動かすことによって
自らの意思表示になるんだな!ということも知った。
また、こうした実質的な質問と同時に人間の根源的なことを問われるような質問もある。
質問というか、何といえばいいのだろうか?
答えられないもの。
例えば、
「あなたは両親が抱きしめ会ったのを最後に見たのはいつですか?」
「あなたは自分の母親があなたを身ごもっていた時の写真を見たことがありますか?」
こうしたいくつかの言葉を公共空間でヘッドホンをつけて
その音だけを聞いていると不思議な気持ちになる。
そして、同時にこの質問を聞いている周囲の参加者の人々はどう思うのだろう?
さらに公園に来ていてこのイベントに遭遇した人は?
質問はテンポよく進んでいく。
150人近くの人間が動くための時間を計算しながら緻密に組み立てられている。
この場所はフラットな公共空間である。
お金を払って参加している観客と、
池袋西口公園にただ集まってきただけの人が混在する中、
係の方のホイッスルによってこのパフォーマンスは始まる。
日常である「今ここ」と、
非日常である「演劇的な空間」が同居している。
と同時に観客であり演者であるわたしたちは
日常の「ここにいる人間」であり、
ヘッドホンに次々と流れてくるある意味計算されているだろう質問に
答えて「演技している自分」が同居している。
場所と個人が同時に対立的な概念で同居する演劇が
この「パブリック・ドメイン」というものなんだろう。
自分の属性ということを同時に考えさせられた。
佐藤雅彦の展覧会でもテーマになっていた「属性」が
幾つかの質問事項を通じて明らかになる。
それはエンディングロールを見るとより明確になる。
あなたはこの舞台の出演者ですよ!
そのあなた自身がこの舞台を作っていったのですよ!
というベルナットのメッセージが直接的に伝わってくる。