先日、テレビ東京でドラマ「モリのアサガオ」が放送されていた。
週刊アクション連載の漫画「モリのアサガオ」(郷田マモラ 作)が
原作となったドラマで話題となったので記憶している人も多いだろう。
本舞台は、その郷田マモラに原案協力をいただき、
青森在住の劇作家・演出家そして高校教師でもある、
畑澤聖悟が戯曲を書き、演出したもの。
この公演の初演は2008年だったそう。
なべげんの舞台は対象に深く切り込んでいく。
モンスターペアレントを扱った「親の顔が見たい」や
介護などの問題を扱った舞台など、
現実に即した問題を真正面から扱って舞台にしていく作品が多い。
観客はそれを見て圧倒され、そのことについて考え始める
きっかけを与えてくれる。
そういう意味では「なべげん」の舞台は
思考を始めるためのスタートボタンを押してくれるような舞台
とでも言うとどうだろうか?
抽象的すぎるかもしれないが、今回の例で言うと、
死刑囚と死刑執行人、そして殺された遺族との関係、
死刑が行われることによって本当に罪は償われるのか?
死刑囚の人権はどのように守られるべきか?
さらには、遺族が死刑囚を自らの手で執行することによる
何らかの変化についてなど、様々なことを考えさせられる。
千葉景子が法務大臣をしていた時期があった。
彼女は死刑制度に対して疑問を持っているところがあった。
しかしながら、彼女が法務大臣の時に死刑執行の決断を下した。
刑の執行に際しては法務大臣の承認が必要である。
その後、千葉法務大臣はマスコミに向けて
実際に絞首刑が行われる場所について
中途半端な形ではあったが一般に公開した。
彼女は何を思ってこの公開を決めたのだろうか?
答えなどすぐに出ない究極の選択のような問いに
私たちは考え続けることでしか対応策を持たない。
その考え続けることの数を少しでも増やしていくことによって
何かが見えてくるのかもしれない。
この舞台は「死刑執行員の参加する死刑執行に関する法律」という
架空の制度を描いている。
これは被害者の遺族が実際の死刑囚に対して刑を執行するという制度。
刑の執行を遺族が拒否すると死刑囚は自動的に無期懲役になる。
遺族もその責任を強く問われる。
死刑囚を愛し、獄中結婚をした女のもとに
刑務官は死刑囚を伴いやってくる。
彼女の自宅で刑が執行されるのだ。
妻となった女はこの一期一会のことに真剣に向き合う。
最初で最後の食事や最初で最後の肌の触れ合いが描かれる。
一生に一回のことがあらかじめ決められると
たいていの人はそれに逆らうようなことは出来ない。
死刑を執行すべく遺族の妻と義父がやってくる。
妻は夫と二人の息子を殺害された。
彼女が自宅に帰ってきたとき部屋は真っ赤に染まっていたと。
今も赦すことが出来ない妻。
そして死刑囚を赦そうとし始めている義父との対比が描かれる。
殺人という罪は取り返しが出来ないだけに
難しい問題をたくさんはらんでいる。
それをポーンと呈示される。
舞台であるから生身の身体がそこにある。
その身体全体から出てくるものを
人間と言う生き物は簡単に無視することは出来ない。
彼が死刑になるのだというリアリティを強く感じる。
本公演はこの「どんといけ」の再演と、
その2年後に新たな死刑囚(幼稚園で園児7名と園長が殺された犯人)
の死刑執行の日が描かれる「あしたはどっちだ」が上演される。
見たい!が、時間の関係で見られない。
悔しいので戯曲を購入した。