新国立劇場で井上ひさし作品が栗山民也演出で行われるという
ゴールデンコンビの公演。
中劇場は井上作品には大きすぎるんじゃないかな?
という懸念を払しょくした出色の出来ばえとなった。
この戯曲が35年前に書かれていたということに驚く。
江戸時代、両国橋のたもとからこの舞台は始まる。
雨宿りに入った金物拾いの「徳」(市川亀治郎)は、
その姿形が似ていることから文左衛門と間違えられる。
文左衛門とは現在の山形県、羽前平畠藩の紅花問屋「紅屋」の当主である。
文左衛門が失踪し平畠藩の人々は大変に困っていた。
というのも、文左衛門は「紅花」の品種改良や育苗などの
農業指導を行っていたから。
彼がいなくなると、「紅花」の収穫量が上がらなくなり、現金収入が減り、
藩の財政が圧迫される。
とともに生産農家の人々や、商いをやっている人々の生活が立ちいかなくなる。
仕事と収入の確保。
このことが一番重要なこと。
それは今回の東日本大震災でも、同じ。
何とかして雇用を生み出して地域の活性化をしていかなければなんまいっす。
井上ひさしは山形の出身である。
井上は地元のことを地元の言葉で記した。
最初は何を言っているのかわからないところもあるのだが、
しばらく聞いていると平畠弁が耳に心地よく聞こえてくる。
徳は間違われるままに、文左衛門になり済まし、平畠の「紅屋」へ行く。
天狗にさらわれたという素頓狂な理由をつけながら、そこの当主を装う。
ここには美しい女将のおたか(永作博美)がいる。
彼女は文左衛門が帰ってきたことを喜び、歓迎し、床をともにする。
文左衛門を装う「徳」は、最初とまどいながら当主を演じている。
が、地位がそうさせるのだろうか?
猛烈に努力をし、当主らしくなろうとする。
まずは、平畠弁を覚え、リーダーとしての発言を意識するようになる。
そして習字を独学し、文字が書けるように努力する。
しかも、左利きで。
愛人だった芸者(梅沢昌代)のもとに行き、彼はいろいろと
文左衛門の話を聞き出そうとする。
芸者は、直接に会って見て、
彼が文左衛門ではないと確信する。
文左衛門は自己保身のために行動を起こす。
三遊亭円朝の落語などにも出てくるような、
壮大な物語が紡がれる。
彼は、そうして自己保身をしながら、文左衛門として生きることになる。
紅花の生産技術に関しても、本物の文左衛門が書いた
帳面を手にれることによって可能になる。
そうして「紅屋」の当主としての文左衛門は完成した。
しかし、これは仕組まれたことだったのでは?
エンディング近くになってどんでん返しが起こる。
平畠藩の組織が一体となって、文左衛門を生贄に捧げる。
徳(=文左衛門)は、そのようなこととはつゆ知らず、
意外なエンディングを受け入れられないままでいる。
組織の論理を優先することが重要であるということが描かれる。
全体幸福の優先。
そこには個人は犠牲にされるという前提がある。
江戸の藩と言えば国家と同じようなもの。
国家の論理に個人が犠牲になるというのは
歴史が証明していることでもある。
雨という文字をモチーフにした大きな周り舞台に設置されたセット(美術:松井るみ)がいい。
回転することによって様々な場所に変化していく。
雨の表現も斬新だった。あれはアクリルの棒だろうか?
が天井から斜めに舞台に向けてさがっている。
それに照明があたると浮世絵などで描いている「雨」が見えてくる。
江戸時代にタイムスリップする工夫が随所に表れている。
永作が亀治郎を胸に抱きながら語る言葉に説得力があった。
組織のリーダーである女将らしい発言であった。
そして、全てを知り受け入れた状態で行動を起こしていたんだな、
ということが良く分かる。
それは、どういうことか?
というのは舞台を見てのお楽しみである。
休憩入れて3時間30分。
まったく長さを感じさせない、恐ろしくも美しい舞台が完成した。
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