本書を何故読んでみようと思ったのか?まったく記憶にないのだが
読み進めるうちに面白くなって来てとうとう読み終えてしまった。
この人の人生は面白い。
慶応大学に入ると福澤諭吉の著書を読むという講座が
必ずどの学部にもあるということを卒業生のHさんに聞き、
大学ならではのカラーがあるものだな!と驚いた。
慶応の三田キャンパスは島原藩(長崎県 島原)の中屋敷だったところを
交渉して手に入れたそうである。
先日、日吉キャンパスの大学院にも
行ったがとても素敵な施設だった。
また1990年には湘南藤沢キャンパスが出来
総合政策学部・環境情報学部を開設。
これは慶応大学の戦略を大きく変えた転機となった。
湘南藤沢キャンパスはSFCと略称で呼ばれ、
一時、電通などではSFCの卒業生は無条件で採用する
みたいな噂が流れていたこともあった。
その頃の佐藤雅彦ゼミなどは
とてもユニークな人材を輩出したことで有名である。
しかも余りにもユニーク過ぎて
組織人の枠からはみ出しがちであるということも聞く。
起業意識の高い学生が多く
ソーシャルな活動に興味がある学生もとても多い。
福澤諭吉は九州は大分県のあたりの中津藩の出身である。
大阪の中津藩の屋敷に生まれその後、中津に戻り、
蘭学修行のため長崎に行き、そこでオランダ語を学び、
さらには大阪の緒方洪庵が主宰する適塾に入門する。
このとき22歳。
適塾で塾長になり彼はオランダ語のありとあらゆる本を読む。
今でいう教養学部的な勉強の仕方である。
文化、科学、工業、生活、政治、経済に至るまで
海外ではどのようなことが行われているのかを書籍を通じて吸収した。
25歳の時に江戸に出る。
26歳のときに横浜見物していたとき外国人と出会う。
そこでオランダ語が会話の役に立たないことを実感し、
これからは英語だと考えを新たにする。
そこから福澤は猛烈に英語の勉強を始める。
そして自ら志願して咸臨丸で勝海舟などと一緒にアメリカへ行く。
27歳の時である。
海外に公費で行かせてもらい給金をもらう。
使うところがないのでその金はまるまる貯まることになる。
そうして彼は塾を起こし、海外の知識の
国内での普及啓蒙に勤める。
洋行すればほとんど本を買うことに使い
それを日本に持ち帰る。
二十九歳の時にはヨーロッパに、
三十四歳の時に再度アメリカへ行く。
そして翌年が明治元年となる。
福澤三十五歳の年である。
福澤の唯一の好きなことは「酒」だったことが記されている。
大酒飲みで酒があればいつでも飲む。
美味いものをたらふく食べ酒を飲む、
酒で失敗もしていることなどをおおっぴろげに語っている。
こんな風である。
年二十五歳のとき江戸に来て嚢中も少し暖かになって、
酒を買うくらいのことはできるようになったから、
勉強のかたわら飲むことを第一の楽しみにして、
朋友の家に行けば飲み、
知る人が来ればスグに酒を命じて、
客に勧めるよりも主人の方がうれしがって飲むというようなわけで、
朝でも昼でも晩でも時をきらわずよくも飲みました。
この文章を読んでもわかるように、
こうした喋り口調で文章がだらだらと続く独特な文体である。
最初戸惑うのだが、あるところで慣れてくると
意外にすいすいと読めるようになる。
そして何故か、偉そうな語り方(しかも本人はそう思っていないのだろう)なのに
最後は○○です。と丁寧な言葉になりそのギャップが、
このおっさん何者やねん!と突っ込みを入れたくなる。
本書は福澤諭吉が六十五歳の時に口述筆記を基本にして、
それに手を入れながら完成させたものだと書いてあった。
その三年後の六十八歳のときに脳溢血となり福澤はその生涯を終える。
「西洋事情」などの著書があり、翻訳書は数百冊にもなるらしい。
とにかく文明開化を率先して啓蒙しようとした人であり、教育者であった。
政治の世界には首をつっこまず若手の学生の教育に捧げた、
奇妙なおっさんの話だった。
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