二つ目が4人と前座、ゲストに柳家喬太郎。
文化放送のビルの12階にこのホールはある。
窓からの景色がいい。
ラジオの放送局だけあってホール背後には立派な
音声の副調整室がありビデオカメラも2台回っている。
高座には座布団前にマイクが1本。
会場の上手と下手の前方に会場内とお囃子を録音するステレオマイクが2本設置されている。
お囃子が生演奏なのが嬉しい。
100人くらいのホールである。
これくらいの規模の小屋だと生演奏のお囃子かそうでないかがより強調される。
いつも立川流の落語会でめくりをやっている
印象がある立川こはるが前座を務める。「締め込み」。
泥棒と間抜けな夫婦が出てくる滑稽噺。
こはるの、こう話したい、こういうテンポで演じたい
というイメージがあるのがいいなと思った。
あとはそのイメージに自分の力量をどれだけ近づけていけるのかが勝負である。
それには論理的な分析と豊富な練習が必要なのだろう。
続いて、柳亭市楽。市馬のお弟子さんだそうである。
小話の集積か?と思ったら、「芝居の喧嘩」という、
歌舞伎見物での話を描いたものだと、後で知った。
そして鈴々舎馬るこ。「牛ほめ」を現代風にアレンジしたところと
古典そのままのところがある
ある種破綻した「新・牛ほめ」。これが良かった。
破綻の仕方がある限界を超えるとシュールで笑えるものになるという見本である。
喋り言葉だけで落語は描けてしまう、その落語ならではの演目となった。
これを映像化すると莫大なコストがかかってしまう。
そんな素頓狂な名作「牛ほめ」となった。
そして、特別ゲストとして柳家喬太郎。自由だった。
ものすごく自由なマクラ。縦横無尽に話題が飛び、
そして最後には綺麗にマクラとして集束する。
夏休みと自分が働いていた夏の時の話が交互に出てくる。
学生時代の夏休みのアルバイト、
そしてサラリーマンの夏の福家書店での
店頭での「アエラ」の呼び込み宣伝。
さらに時間が遡って、永福町のおじいさんのところに
夏休みになると遊びにいったことから落語に入っていった。
映画「シックスセンス」みたいなお話。
落語のいいところは前提が説明されないと
そのことに観客が気づかないということ。当たり前である!
だからこそ、その前提が唐突に説明されることによる
ショックが劇的な効果を生むのである。
そういうことを考えながら喬太郎の「孫帰る」を見た。
しみじみと感動的な噺だった。
マクラの時には、「はちゃめちゃ」なことを言って劇場内を騒然とさせた、
同じ噺家さんとは思えない素敵な人情噺だった。
そのギャップがいい。
煙草の小道具が聞いている。間を作るのに適した小道具である。
人には仕草がありその仕草が時間を規定していく。
時間のコントロールと声の大小出し方のコントロールは
全ての表現者に求められている能力なんじゃないだろうか!
仲入り後、三遊亭きつつき。
この人の顔と様子がいい。
どこかひねくれた風貌がいい味になるだろう。
「居候」おかみさんの口調がいい。
トリは三遊亭夢吉の「天狗裁き」。
夢吉だけに夢の噺。
しかし、この噺は難しい。
演じ方をどのようにすればいいのか聞きながら考えてしまった。
そして、これは冤罪の話でもあるなと思った。
やっていないことや知らないことを、やっただろう知っているだろうと
思い込んでいる人に尋問されることほど無益でつらいことはないだろうと
聞きながら思っていた。
大家さんの感情の変化などの表現の工夫は必要だった。
しかし、そもそも、それだけで成立するような噺なのだろうか?
と考え込んでしまった。教訓的な高座であった。