「ベニスに死す」を最初に見たのは大学生の時だった。
最後に貴族の男がリド島の海岸で死ぬというシーンが印象的だった。
卒業旅行でヨーロッパに行った。
そのときにベニスにも行き、サンマルコ広場から船に乗って
リド島へ行ってみた。
朝早くのリド島の海岸にはおおくの海鳥が集まり、
太陽の光がまぶしく降り注ぎ、
あのビーチに設置されているいくつもの小屋?のようなものを見た。
ああ、ここが「ベニスに死す」のラストシーンの舞台だったのか?
と感慨を持って見ていたのを覚えている。
あれから30年近くが経った。
「ベニスに死す」自体が1971年の映画。
40年ぶりにニュープリントになって上映。
いま見ると新たな発見がたくさんあった。
この主人公の苦悩と憂鬱が画面一杯に拡がるようだった。
貴族であり芸術家である男はオーケストラの指揮者をやっていた。
美しい妻と可愛い娘に恵まれ何不自由ない暮らしをしている。
こういったことはベニスでのシーンの中にインサートされる
カットバックの回想シーンで描かれる。
それを見ながら観客はこの男の半生に思いを馳せる。
オープニングのシーンが美しい。
朝靄の中一艘の蒸気船がアドリア海を走る。
逆光ですこしシルエット状になった船が
静かな海面を滑るようにしてやってくる。
マーラーの交響曲「アダージェット」が流れる。
交響曲の3番と5番が
この映画のテーマ音楽のように流れる。
時代は1911年である。第1次大戦の少し前。
中国では辛亥革命が起きる年である。ジャッキーチェンが映画を作った。
ベニスに一人の貴族の男がやってくる。
男はリド島にある高級ホテルに宿をとる。
年老いて来て心臓などに不安が残る男は
静養のためにここを訪れたのだ。
男は淡々とベニスでホテル暮らしをする。
自らの人生の斜陽を確認するかのように。
インサートされる映像で娘がなくなってしまったことや、
コンサートの指揮で観客の大ブーイングが行われたことなどがわかる。
妻にも先立たれていると原作にはある。
男は世界に絶望したかのようにベニスにやってくる。
そこで男は思春期を迎えただろう美少年に出会い恋をする。
彼に一縷の希望を抱く。
男の希望を彼に託すことによって最後の生を燃やし尽くしたいと思ったのか?
男は何も語らない。
台詞はない。
表情やしぐさだけでビスコンティは描ききる。
その真意は観客それぞれが考えればいいことなのかもしれない。
この時期ベニスには疫病が襲い掛かりそうになっていた。
コレラである。
目に見えないものを恐れる男。
そしてベニス市は消毒薬を巻き疫病への予防をするのだが
誰も本当のことは言わない。
まるで今の福島のようでもある。
ついにはベニス市も死者が現れ本格的な対策をとり始める。
対比的に描かれる貧困層の人々やジプシーたち。
世界は貴族だけで回っているのではない。
自らも貴族であるビスコンティ監督が一番知っていたことなのではないか?
そして貴族であることの苦悩が同時に描かれる。
とても陰鬱で救いがない映画だったのだ!と30年ぶりにみてわかった。
男は最後に死化粧を連想させるメイクを施す。
美少年への最後の思いを遂げようと、しかしその想いの半ばで彼は
この世を去る。化粧が汗でみにくく落ちて行く。
やはり名作であり傑作であった。
緊張感がずーっと続く、独特の退廃と虚無の世界が描かれた映画である。