前川知大がここで描こうとしたことは
「人間性とは何か?」ということを突き詰めていったことの結果なのではないだろうか?
これを観ていて何故か三本の映画を思い出した。
今年見た「ツリー・オブ・ライフ」「私を離さないで」
そして、以前見た「真夜中のカウボーイ」。
その理由はなにか?
これらの映画は表現スタイルは違えども、
人間と言うどうしようもないものについて描かれているから。
それを本作では、対比的に見せるために
夜にしか生きられない「ノクス」と「キュリオ」と呼ばれる今までの人間とが描かれる。
40年前にバイオテロがあり人間は激減した。
しかし数年後、その感染者の中から奇蹟的に回復した人々が誕生した。
彼らは頭脳明晰で健康で若い肉体を維持できるのだが
太陽の下では活動が出来ず太陽を浴びると死んでしまう。
彼ら「ノクス」の社会は発展し清潔で合理的な社会が形成される。
いっぽう、キュリオ(人間)と呼ばれる人々は隔離され
コミュニティの中で生きることを余儀なくされる。
ノクスの経済封鎖などもあり、ノクスで生産された物資が入ってこなくなり、
自給自足的な生活を送っている人々が共存している状態。
米国に「インディアン居住区」と看板が出ていている
地域に行ったことがあるが、後から出てきて侵略してきたものたちと
共生しつつも一線を画す、そんな感じ。
コミュニティとの境には門番が立ち、出入りを監視している。
キュリオはキュリオでノクスからウイルスがうつされるのではないか?
とおびえている。
日本では、キュリオたちは四国に住みかを割り当てられ
そこで人間のコミュニティが出来生活している。
また、若い人で選ばれた人は
ウイルスの抗体を打ち「ノクス」になる方法も解明されている。
そんな、時代の話である。
この前提を理解して演劇を見ると理解が早い。
劇場の折り込みに現在までのあらすじが書かれているので
読んでからの観劇をおススメする。
印象的だったのがキュリオ(人間)の子ども鉄彦(大窪人衛)と
ノクスの見張り番(浜田信也)との交流。
鉄彦はノクスに興味を持っており、
見張り番はノクスの子として生まれているので
キュリオのことを知らない。
この二人が新たなノクスとキュリオのコミュニケーションを始めるのだろうと思われる。
鉄彦は見張り番にノクスの友達が欲しいと告げる。
しかし、ノクスにもキュリオにもいろいろな人がいて、
彼らの純粋な関係はいつまでも純粋なまま続くわけではない、
という現実が突きつけられる!
キュリオの娘の結(加茂杏子)が
ノクスとなり、ノクスの家族に引き取られる。
その後、キュリオである実の父親と娘が再開する。
清潔な服を着て身なりもさっぱりしており、彼女は未来に対しての希望を語る。
それを目の当たりにした父親は号泣する。
その悲しみは娘にはもはやわからない。
印象的なシーンだった。
そして、こうしたことはいまの日本の現実世界にもたくさん起きている。
人間とはそうした「業」を抱えた生きものなのだ!
同時にこれを見ていて、震災後の日本の構造のことについて考えた。
福島の人たちや被災した人たち。
そこに留まるものと離れるもの。
正解はない。
それは個人の解釈に委ねられるのが現実である。
27日まで。