ガレキの太鼓、初観劇。
「ガレキ」という言葉が3・11以降の東北の風景を見て
日常用語のように使われるようになった。
しかし、あれはガレキではなく倒壊家屋であり流出家屋であると言っている方がいた。
地震や津波で流される前は、
それに囲まれて生活をしていたものたちであるのだなと気づかされる。
日仏若手演出家シリーズ参加作品の一つとして本公演は上演された。
2010年8月に公演されたものの再演である。
が、折り込みに作演出の舘そらみは初演とはお話自体変わっていると書いていた。
こまばアゴラ劇場を横使いにした客席である。
左右が広く奥にエレベーターホールがありそこも舞台として使われる。
たくさんの衣装が吊るされている。
ある女性の話だということだけを聞いていたので、
この衣装はその女性の衣装なのかな?と思って開演を待った。
開演前に俳優たちが舞台に出てくるというのは
青年団と同じような構造である。
演じるのは全て女優。
ある女性の独白からこの舞台は始まる。
井上三奈子演じるナオちゃんの独白である。
彼女はカウンセリングを受けているのか?
カウンセラーなのか医師なのかに彼女の少女時代からの記憶を語っている。
幼稚園時代のエピソード。
おしっこや鼻くその話。
そして小学校入学前に、おばあちゃんにランドセルを
買ってもらうエピソードなど。
彼女には兄がいて兄との思い出もたくさん語られる。
幼少期は当然、家族との記憶が中心となる。
ナオちゃんにとって世界はそれだけで成り立っているのだ。
ナオちゃんが小学校6年生の時に兄との事件が起きる。
兄はその頃、引き籠っていた。
それまではナオちゃんは頭のいい兄を尊敬していた。
そんな兄が引きこもり、気持ち悪いと感じ始めるようになる。
思春期特有の異性に対する感覚が兄にも爆発した。
頭の良すぎる兄は
社会に素直に溶け込むことが出来なかった。
その事件をきっかけに家族のバランスが崩れてくる。
ナオちゃんはその事件が心の奥にトラウマのようになって沁み込んでいく。
表面的にはその傷は見えてこない。
これは誰にでも起きることだなと見ていて思った。
私たちは人間関係などを含めて
本当に微妙なバランスの上に立って生きているんだな!と感じる。
そうしてナオちゃんやナオちゃんの兄のようになることもあるだろうと思った。
その感覚をつかず離れずの距離で舘そらみは描いていく。
そこには現実を見つめる透徹とした眼差しがある。作家にはそれが必要だ!と
映画監督の溝口健二がそのようなことを言っていた。
そうした眼差しを舘は持っているということだ。
ナオちゃんは高校に入って隣の中学出身の友人などが出来、
一緒にブラスバンド部に入り、その後ケイオンのようにバンドを始める。
好きな男子に告白し彼と付き合い始める。
初めてのキス、そして初めてのセックス。
順調に見えるナオの人生と並行して
大変なことも同時に起きる。
それは、彼女の意志とは関係なく起きる。
その中でナオちゃんは
なんとか自分の居場所を探し生きて行こうとする。
みんな同じような問題を抱えながら生きているのだ。
ナオちゃんの場合は、感受性が豊かで繊細であるからこそ
起こしてしまったこと、なのかもしれない。
舘そらみは、そうした現実があるということを
目をそらさずに描ききった。
日本は過去何年も自殺者数が3万人を超えている。
これは、どういう数字なんだろう?
現在、交通事故死者は数千人である。
観終わった時に、何故だかわからないのだが、
ラース・フォーン・トリアー監督の映画をいくつか思い出した。
15日まで。