この題名、日本語に訳すと「かくれんぼ」である。
2005年の米国映画でこういう題名のものがあったらしい。
「犯人を探す。本質を見つけ出す。」みたいな意味も。
野木萌葱は、今回もまた困難な課題に自ら挑戦していった。
日本の探偵小説の作家をめぐる物語。
先日、シアタートラムで「乱歩の恋文」(長田育恵:脚本)というのを見て、
そのときの日本の探偵小説の作家の関係を知っていたのが
今回の観劇に少し役立った。
日本の探偵小説を始めた、江戸川乱歩。
そこに出入りしていた博文館の編集者だった横溝正史
(ちょっと調べたら、もともと横溝正史を
関西から東京に呼び寄せたのは江戸川乱歩だった。)
横溝は戦後を代表する猟奇的な事件を扱う探偵小説作家となる。
横溝の関西弁がいい。
そして、そこに絡むのが夢野久作。
彼は名作「ドグラマグラ」を世に出してこの世を去る。
この3人を中心に戦前、昭和初期の頃からの話が描かれる。
同時に彼らの創作した登場人物が同じ舞台上に現れて会話する。
何とも演劇的な手法。
彼らは、突然いなくなり現れる。
彼らの関係が変容していく。それを見ていると混乱してくる。
野木の狙いなのだろう。
江戸川乱歩、夢野久作、横溝正史の作品のエピソードが取り上げられる。
作品にまつわる当時のことを、知っているとさらに面白い。
例えば横溝正史の「犬神家の一族」を扱ったシーンでは
角川春樹、市川昆、そして金田一耕助探偵が出演し、
みんなの前で有名な映画のシーンを演じる。
虚実ないまぜになったこれは不条理劇なのか?
と思って見ていたら、野木はそれだけでは、この舞台を終わらせない。
作家という芸術家が、ものを生みだしていくときの
苦悩と生み出し続けなければいけない「性」(さが)が描かれる。
全てを裸にした状態で作品を生みだしていかなければ
ならなくなることも出てくるだろう。
そのときに、創作が出来る人=ものを作る人。と、
そうでない人=ものを作らない人、との分断が象徴的に描かれる。
彼らの間を大きな檻の格子が隔てるのだ。
言葉を、その人なりに生み出していくことに対する
作家へのレスペクトが野木の根底にある。
今回で言えば、その人なりの探偵を生みだし、
頭の中でその登場人物たちが回っていき動き出す。
と、同時に世間の評価や、自己のモチベーションなどと
闘い続けなければならないという事実がある。
そうした創作者のその現実を3人の作家をベースに表現しようと向き合った。
野木の困難な挑戦が
最後にはきちんと伝わってきて清々しい気持ちになった。
本公演の上演時間は2時間だったが、
そもそもの脚本はさらに書き込まれており
2時間半くらいの戯曲だったと伺った。
その戯曲はロビーで販売されている。
4月22日まで。