本書を読んでみようと思ったのは、先日読んだ
「白」原研哉(@中央公論新社)について
本書とデザインが似ている!というコメントを
FB友人から頂いたのがきっかけだった。
三島由紀夫の「文章読本」は有名なので知っていたが
「小説読本」というものがあることを知らなかった。
早速、図書館で注文する。
装丁は原研哉か?と思ったら、大橋泉之という方だった。
シンプルでチカラ強い装丁。
奥付を見ると、2010年10月とある。????
三島由紀夫は1970年に割腹自殺で亡くなったんじゃなかったか?
市ヶ谷の自衛隊に侵入し占拠、割腹自殺した!
という事件は幼心にも「世間で大きな話題となった!」
ということで覚えている。
三島由紀夫は独特のヒロイズムとナルシズムを持った人だった。
その経歴は華々しい、東大の法科を出て、大蔵省に官僚として入省。
当時の最高峰のエリートコースである。
その後、8か月して大蔵省を辞め、作家になる。
「仮面の告白」という小説を書いた。
そこから三島は戯曲や評論も手掛ける。
映画にも出演し、増村保蔵の「からっ風野郎」では主役を務める。
耽美的で倒錯的なその性癖は世間を騒がせるものだった。
演劇でも「サド侯爵夫人」や「近代能楽集」などは
いまも盛んに上演されている。
三島が自殺したのは45歳の時だった。
自らの肉体が老化するのを見るのが嫌だったみたいな話も聞いたことがある。
がもう、42年も前の話。
本書は三島の死から丁度40年後に発行された。
三島がいろいろなところに書いた、
小説や文章、芸術に関するエッセイや評論をまとめたもの。
自らの創作についてのことを様々な角度で書いている。
これを編集するのもさぞや大変だったことだろう。
三島が書いた小説や戯曲以外の文章を全て読み、
本書のコンセプトに合わせてキュレーションされている。
大変な手間である。
文章の硬軟取り混ぜて掲載されており、
すぐには理解できないものなどもある。
しかし、本書の根底に流れているのは
小説を創作するというのは、大変なことであるということ。
やむにやまれず書くこと。
そして書き続けることによってしか
小説たりうる小説は出来ないというようなこと。
そのためには膨大な「書く」ということをやり続けなければならず、
それを経て自らの文体というものを獲得する。
そうして初めて、小説を書くことが出来るのだと
三島は何度も繰り返す。
しかし、それだけでは、小説は書けないということも語られる。
何か自らのうちから出てくるもの、出さざるをえないものがある
ということで、初めて、小説が小説たりうる。と。
三島の言葉を引用する。
「小説家になったという才能の特質は何であろうか。(中略)
結果論で云えば、それは単に彼の文学的才能が
すべての制約を打ち破って噴出するほどに強力なものでもなければ、
宿命的なものでもなかったということになる。」
そうか!それほどまでに表現したいことがあり、
それを続けられる人こそが才能が本当にある人だということか!
才能はやはり、ある種の強い想いの連続なんだな!
と思った。