副題は「日本的キリスト教の創造」。発行は、1997年。
内村鑑三は今も読み継がれている。
逆に当時以上に注目されている作家とすら言えるのではないか?
と小原信の文章を読んで感じた。
本書の中にこんな文章がある。
ニーチェやキルケゴールはキリスト教国のなかにあって
「神は死せり」と言ったが、鑑三は非キリスト教国日本にあって
「神は在ます」と言って近代文明を批判した。
その結果ニーチェがオーソドックスな思想家にはなりえなかったように、
内村鑑三は日本のアウトサイダーとなった。
さらにニーチェが、生前には理解も評価もされず孤独であったように、
鑑三もまた、戦後に一時は平和主義者として脚光をあびたりはしたものの、
全体としての鑑三像は、まだ親切に評価されているとは言えない。
決して読みやすい文章とは言えないが、
今の時代にニーチェや鑑三が再発見されていることが面白い。
ふたりとも、宗教的なるものの本質をついた
思想家であったのではないか?と推測するのだが、どうだろうか?
内村鑑三は1861年に生まれて1930年に没す。
明治維新少し前から日中戦争の前までの70年間を生きた。
本書は内村鑑三研究の第1人者による
内村鑑三の生涯を描いた評伝である。
鑑三の青春が培われたのが札幌農学校である。
あのクラーク博士の「少年よ大志を抱け(boys be ambitious)」で
有名な学長のいた現在の北海道大学である。
この学校は設立当時は官費ですべてがまかなわれ
学生たちは全寮制で食べるものが支給され、そこで無料で
自由に学ぶことが出来た。
キリスト教的なるものも含めて、英語教育やその他の教育が行われた。
そして、そこにはそうそうたるメンバーが集まってくる。
鑑三と並んで有名なのが五千円札の肖像にもなっている新渡戸稲造である。
鑑三はこの札幌農学校を首席で卒業した。
しかし、鑑三は決して生き方が上手だったわけではないこともわかる。
この学校に教職を得て残るものは鑑三より
ずっと出来の悪いものたちだった。
秀才が必ずしも世間的に認められるというのではない。
鑑三は当時としては珍しい、米国留学を経験する。
しかも自ら進んで。
鑑三は米国でクラーク博士の母校でもある、アマスト大学に進学し
シーリー総長と出会い、福音主義的信仰に目覚める。
鑑三が後に英文で書いた「余は如何にして基督教徒となりしか」に
その経緯が詳しく書かれているらしい。
日本に戻った鑑三は教職から社会批評家みたいなものになり、
毎日たくさんの文章を書き続けることになる。
「萬朝報」という大部数の雑誌に記事を書き、有名人となる。
その後鑑三は、キリスト教的なるものの精神の普及に生涯を費やす。
自ら発行する雑誌「聖書之研究」を出し続け、
講演なども行い全国を飛び回る。
そして鑑三はこのように精力的であったがゆえか、
とても激しい性格で周囲とぶつかりあうことも多かった。
弟子たちも鑑三のあまりの強さにおののき
離れていく人も多かったという。
鑑三はなぜそうなっていくのか?が理解できず、孤独感を常に味わっていたようだ。
その鑑三にも家族がいた。
鑑三は最初の結婚に失敗。
その後さらに3人の妻をめとり三人の子供が生まれた。
晩年はとてもやさしいおじいさんの側面も見せたという。
鑑三の墓石にはこう記されている。
「I for japan;
japan for the World;
The world for Christ;
And All for God」
(われは日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、すべては神のため)
ここには徹底的に自己のない利他的なココロだけがある。
そのことが今の時代、共感を持って迎えられている原因なのかもしれない。
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