「1月8日、君はどこにいたのか?」メヘル・シアター・グループ(@東京芸術劇場シアターイースト)
イラン・テヘラン在住のアミール・レザ・コヘスタニの作・演出。
劇場に入ると左右に分かれて舞台を囲んで座るという形の構造になっていた。
舞台上に置かれた椅子にはすでに俳優さんたちが座っている。
この舞台では、俳優たちは外にはけるということがない。
この椅子に座っている時は袖に引っ込んでいるのと同じ状況となる。
イランのことについて私たちはあまり多くのことを知らない。
アッバス・キアロスタミを始めとしたいくつかの
イラン映画やドキュメンタリーなどでイランののスタイルを知る。
イランも格差があり、テヘラン大学に通うものたちはその中でもエリートであるらしい。
本作はその大学生たちが出演の中心になる物語。
登場人物はお互いに直接、話すのではなくその大部分を携帯電話を通じて会話する。
その会話の内容を聞きながら、何があったのか?
ということを観客は想像する。
ある男(アリ)の「銃」が無くなった。
大学の仲間たちが演劇をするというのでサラの家に集まったときにそれは起きた。
アリは兵役中で、銃を所持していたのだ。
持ちだしは規則で禁じられているらしい。
ジャン・ジュネの「女中たちへ」という演劇をやろうということで
彼らは、集まってきた。
そこには、その銃を必要としている女たちがいたということになる。
何故、彼女たちは銃が必要だったのか?
謎解きのようにして舞台は進行していく。
ときどき、左右のスクリーンに映像が流し出される。
舞台は真っ白な30センチ四方のタイルが敷き詰められた清潔な空間。
舞台が進行していくに従って、そこに泥がついた靴で歩きまわった跡がついたり、
写真がばらまかれたり、ビデオテープ?がまき散らされたり、
血が飛び散ったりする。
本作では、とてもショッキングなことが描かれているのだが、
それを暗示的に描く。
時々、台詞でそのようなことが語られるのだが、
それも観客の想像力に委ねられる。
先日観た、ハンガリーの舞台もそうだったが、
なじみの薄い国の舞台を見るときに、
彼らが行っていることなどを理解するのには時間がかかる。
それは日本でも同じかも。
初めて見る劇団の舞台でも起きること。
こっ、これは、どういうことなのか?という「?」がたくさん出る。
しかしその「?」に延々と付き合い続けると、見えてくる何かがある。
海外の演劇でそういうことが経験出来る機会ってなかなかない。
そういう意味でも貴重な試み。
ただし、
演劇は、映画やドキュメンタリーなどよりも、さらに想像力が
必要になってくるというのは確か。
それに向き合い続ける覚悟がある人には、何か大きな贈り物が待っているのだと思う。
アフタートークがむちゃむちゃ、面白かった。
特に、イランの上演に関しての規制についての話が秀逸だった。
まず、脚本を当局に提出し、その後、稽古場で稽古を見てもらい、
これは上演可能か?どうか?ということをチェックされるらしい。
バカバカしい規制をするものもいるらしいが。
(これが現実になると「笑いの大学」三谷幸喜作。みたいになるだろう。)
アーティストでこうした委員を務めるものもおり、
彼らは、上演に際してのアドバイスをくれたりするそうだ。
表現するということに付きまとう規制はどこの国にもある。
アミールさんは、それは英国にもあると言っていた。
アミールさんは英国のマンチェスター大学を出ている。
その中でどのように折り合いをつけて表現をしていくのか?
表現するとは社会とかかわりあうということでもある。
表現者が観客の想像力を信じれば
表現は規制を超えてさらに深く、観客に浸透していくだろう。
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