韓国人、ユン・ソンハルの構成演出。
F/T12が終わった。
11月はこれらの舞台を見るのにまこと忙しかった。
嬉しい悲鳴。きゃああ!
受付で、同じくF/TのファンであるKさんに会う。
Kさんはパスを購入してすべてを見ている。
この日、本作品を見て
こうしたアジアの作家の優れた作品が見られることに感謝。
とともにF/Tのプログラムのチカラを感じるのだった。
本作はまさにF/Tらしい演劇だった。
にしすがも創造舎のすべてを使った試みが行われる。
ここでの、この日の体験は一生忘れられらないんじゃないだろうか?と思う。
ユン・ソンハルは朝鮮戦争をテーマにして、この舞台を作り上げた。
その時の記憶というものを基にこのイベントを構成している。
人々の記憶が語り継がれることによって、
そのときの歴史的な事実が継承されていく。
記憶に留まらないものは、なかったもの、となる。
また、同時に人間は忘れることの出来る動物でもある。
記憶の奥底には眠っているのかもしれないが、
日常生活では、忘れてしまえる。
そうして私たちは、生きていくことができるというのも一つの事実。
戦争に行ったもの戦争を体験したものに起きる、
尋常でない経験から起こる心的外傷ストレス。
このストレスが後になって問題を起こす。
戦争から戻ってきた兵士などがこの症状に陥りやすい。
東日本大震災などで大変な目に遭った人たちの
心の奥底にも同じようなストレスがあるのだろう。
そうした記憶を抱えながら私たちは生きていかなければならない。
それを、こうした表現にして私たちに呈示してくれた。
その表現は、簡単なものではないし、
すべての人に、伝わるわけでもない。
折り込みのパンフの中でユン・ハンソルはこんなことを書いている。
「演劇はコミュニケーションの道具ではない」
とユン・ハンソルは宣言されています。という質問に続けて
「もっとも積極的で、成功を収めているコミュニケーションは広告でしょう。
広告は効果を求められるものですから、100人が100人、
同じリズムでそれを受け取り、それを買いたいという
欲望を持つようにしむけなければならない。
演劇はその反対です。
すべての観客が、すべてのできごとを、同じリズムで受け取ることは不可能だし、
それを望むような場でもない。私は公演を『観る』というよりも
『経験』するという言葉で表現したいのです(中略)
均一化されたリズムや感情へ導くのは、抑圧と同じ行為です。
そのようなコミュニケーションは芸術の範疇にあるものとは言えません。
私は、そうでないものが演劇だと考えているんです。」
この言葉は今回のこの演劇をまさに体現する言葉だった。
(以下、ネタバレ)
教室で受付順に待たされる。
そのとき私たちは、待ち時間に先ほど紹介したユン・ハンソルの言葉を読む。
もちろん、そうでないものもいる。
時間が来ると教室のスピーカーから校内放送が流れる。
案内に従って、校庭に出る。

と、突然、この演劇は始まる。
サロメのエピソードを借りた言葉を日本人俳優が日本語で、
同じことを韓国人俳優が韓国語で繰り返す。
その後、私たちは校舎の3階に行き、
そしてその後、今度は地下に行く、
俳優たちは朝鮮戦争の記憶?を語り続ける。
校内放送では、同時に、このにしすがも創造舎の場所についての
歴史と戦争のエピソードが語られる。
そうして案内された後、私たちは体育館の中の椅子に座って
「抑圧されたものたち」を疑似体験するのである。
そうした行為を目の当たりにした経験は生涯忘れられないものになるだろうし
戦争をはじめとする非人間的な行為は絶対にやってはいけない!と確信した。
今年のF/Tの中で最もF/Tらしい公演だった。
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