山村修は(狐)というペンネームで
長く「日刊ゲンダイ」の書評記事を20年余り連載していた。
本書を読んでみようと思ったのは、
ブログ「
中山幸雄のデジタルノート」
そこで、中山さんが(狐)が書いた書籍をいくつか取り上げられており、
興味をもち、たまたま本書を借りることとなった。
「遅読のすすめ」とは珍しい。
多くのものは「速読」について書かれている。
1ページを数秒で読むみたいなことがそこには書かれている。
それは「読書」ではないだろう!と山村修は説く。
そうだろうなあ!と思う。
情報を素早く得るということに関しては
確かに速読は有効かもしれない。
立花隆や福田和也はそれも読書という言葉で片付けてしまうから、
山村が反論するのである。
彼らの読書は仕事であって、それ以上でもそれ以下でもない。
山村は、そこには 「読書の愉楽」 みたいなものはないと言う。
ひとつひとつ丹念に言葉を拾い世界観を感じることが
作者にとっても本望ではないだろうか?
読む時間と文章を紡ぐ時間はまったく違う。
1時間かけて書いた文章でも
読むのは数分あれば出来るだろう。
手書きの時代にはもっと時間をかけて
書かれていたんじゃないだろうか?
それを数分で読むことで消費してしまうことのもったいなさを
山村は本書で説いているのだ。
高野文子の漫画「黄色い本」について取り上げられている。
高校を卒業したら紡績工場で働くことになっている
地方の女子高校生が学生最後の思い出に
マルタン・デュ・ガールの「チボー家の人々」を読みふけるというもの。
この漫画は読書の楽しみを描いた傑作であると思う。
作者の高野文子がそのような人だったんだろう。
とはいえ、山村修の言う「遅読」は1週間に1冊のペースで本を読むというもの。
月曜日に読み始めて週末に読み終える。
このペースが毎日続くとその量は圧倒的になる。
毎週、「日刊ゲンダイ」に書評記事を連載されていたのだから
実際はもっと読まれていたのに違いない。
生活の中に読書があるという生き方。
それが、本書の言う本当の意味での「遅読」ではないだろうか?
ちなみに本書によれば吉田健一や小林秀雄も本を読むのが
遅かったそうである。
1週間に1冊のペースも維持できていない自分は「超遅読」とでもいうのだろうか?
ところで、学生時代、本を読むということの楽しみを実感した経験がある。
大学2年生の夏休み。祇園祭の頃。
京都の「駸々堂書店」で村上春樹の「風の歌を聴け」を購入して、
夕方、自宅に戻り、ゆっくりとしかし一気に読み終えた。
夕方直前から日が暮れて暫くの時間。
あの時の、読書以外のことを何も考えずに活字を追い
「ぼくたちは朝日新聞の上でセックスをした」というような
言葉を追いかけていた瞬間を思い出し、嬉しくなった。
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