また、この舞台を見られてよかった。
そう思える数少ないもののひとつである。
これは音に関する、そして陰影に関する
サイモン・マクバーニーの考察の結果である。
すべての物事が完璧にしつらえられそれが正確に行われる。
研ぎ澄まされたシンプルな舞台だけにその精度の高さが要求される。
禅を思い出させるようなシンプルな引き算の美学。
サイモンはそこに価値を見い出し、現場でその感覚を再現する。
音の要素が、これほどまでにデザインされた舞台をほかに知らない。
障子やふすま、扉を開ける音、水が手水鉢に流れ込む音。
そして、春琴ならではのお琴の音。
生音を工夫して増幅し世田谷パブリックシアターいっぱいにその音を充満させる。
さらに俳優の発声もその中に含まれる。
どのような発声をするのか?
さらに、どのような大阪弁のイントネーションで語るのか?
深津絵里はそれらの要求に的確に応え再現する。
透明感のあるきりっとした深津絵里が幼女の人形を操りながら
春琴の幼児の残虐性を声で表現する。
その怖さが音を通じて身体にしみこんでくる。
立石涼子が京都の古いスタジオに来て録音をするという設定。
静かな現在のスタジオという閉鎖空間から戦前の
道修町の薬問屋へとタイムトリップする。
開演前には大音量で渋谷駅のアナウンスや雑踏が劇場内で流される。
それと対比的に静謐な音の空間が上演中に拡がっていく。
音が氾濫することで逆に貧しいものになっている
現在の状況をシニカルに描いているのか?
舞台が終わるとまた光と大きな雑踏のノイズに劇場が包まれる。
光に関しても同様。
陰影礼賛で賞賛される
闇を中心とした春琴の時代にトリップする。
漆黒の空間にスポットライトがあたる。
その光がとても気持ちよく、
さらには蝋燭の炎がそれにアクセントを添える。
風で光が揺らぐ。
そうした微細な変化を掬い取ることができたわたしたちは、
いまや、大切なことを忘れてしまったのでは?
とサイモン・マクバーニーに言われているような気持ちになる。
春琴と彼女の手をひく男性が
11歳と15歳で出会ってから亡くなるまでのことが語られる。
盲目の春琴は薬問屋の豪商に生まれたので
小さなころから彼女の世話をする人がいるような生活。
盲目がゆえにわがままで意地悪に育ったのかもしれないが、
その意地悪さがある種の嗜虐性を生みだし、
手連れの男はそれを受け入れる。
そうした奇妙な愛の形がここで語られるのだが、
その地の文を立石涼子が読み
マイクを通したその声を通じて谷崎潤一郎の書いた日本語が
素晴らしい音となって劇場内を漂うのである。
また、棒や畳を効果的に使った演出技法は何回見ても気持ちいい。
笈田ヨシの関西弁の語りと本條秀太郎の三味線が心に残る。