レバノン出身のラビア・ムルエ連続上演。この日の日曜日は、
こまばアゴラから移動して池袋へ。
日曜日の池袋は天気も良く開放感に満ちている。
共同演出 サルマド・ルイス。
ラビア・ムルエの3作品を見て思ったのは
彼はいつも演劇とはどういうものだろうか?
という疑問を問い続けているということ。
その疑問を観客に提示して観客たちはそれを受け止め考えさせられることになる。
こうした「考える」ことのきっかけを与えてくれるのも演劇の大きな役割の一つ。
そのことについてムルエさんはとても自覚的である。
本作の出演者はレバノンの内戦で17歳の時に
左の頭部を撃ち抜かれ右側が不随になった人のお話。
その人が実際に登場して自由が効く左手を使ってDVDプレイヤーで
次々と映像作品を上映し、
ラジカセにテープを入れて
彼のことについての過去の事実?について語る音声が流される。
ときどき、半身不随のイエッサさんは歌を歌い自ら言葉を発したりする。
その映像や音声や歌の断片を組み合わせながら観客は考えはじめる。
僕が考えたのはまず「レバノン」で内戦が行われ
こうした被害者が出たということ。
そして3日間昏睡状態だったイエッサさんが奇蹟的に回復し
この舞台でこうして演じるまでになるということの過程。
イエッサさんは現実と表象の違いがわからないということ。
目の前にある物体については現実だと思い、写真などに写されたものはよく認識できない。
逆に舞台で演じられていることをその場の本当の出来事であると思ってしまう。
この現象についてムルエさんは観客に現実と表象とは何か?を問いかけてくる。
この舞台にいることが現実のことなのか?
そして方法を変えると「不在」を描くことによって
「存在」を浮き立たせることが出来るのか?
そうした演劇的実験を行い続けている作家である。
こうした兆発を行い続ける行為はアートの典型的な表現であるが、
それが演劇であるとかインスタレーションであるとか映像作品であるとか?
を規定して投げかけるのは演出家に任されており、
それを規定することによって、なぜ演出家はこれを演劇と規定したのかな?と
観客が考えるきっかけを作っているんだな、
と1時間近くのアフタートークを聴いて思った。
このシルエットはコンドルズの近藤良平だ!