ディレクターのYさんから強力なオススメのあった一冊。
Yさんは、映画のことが本当に詳しく、京都にある「ふや町映画タウン」という、
カルトでマニアックなレンタルビデオ屋さんまでわざわざ行くほどの、
いい意味での強力オタクである。
このゴールデンウイークはミヒャエル・ハケネの特集上映がユーロスペースであり、
強力オススメをしてくれたのだが、連休後半に風邪をひいてしまい行けなかった。
本書も、紀伊国屋サザンテラス店で発見し購入したもの。
で読んでみて思った。
これは映画批評の名を借りた、
宮台真司の思考の過程を著述したものなのか?と。
内田樹の映画批評本「映画の構造分析」(@晶文社)にも似たような面があるが、
ここで取り上げられている映画はある種メジャーな映画が多い。
それをフロイトやユング的に捉えたりするところが内田氏の著書の
極端で面白いところだった。
宮台のそれはそれとは違い、マイナーだったりカルトだったりと言われるような
映画も積極的に取り上げている。
取り上げられている映画の半分くらいしか見てないんじゃないかと思う。
そして、文体と用語の難解さで最初はめげそうになった。
ウォン・カー・ワイ監督の「花様年華」を取り上げた稿ではこんな感じ。
関係性の内側と外側という話から。
(以下引用)不作為も行為なり、とか、不在が存在する、
などと言いたいのではない。そうではなく、いかなる関係性も
<世界>の中にあるがゆえに、未規定性によって浸透されている。
そういう受動性にいかに敏感たりうるかを、ここでは問題にしている。(P109)
うーん。何のことだかわからない理解できない。
未規定性ってなに?「ミキティ」と発音は似ているけどわからない。
これが本書のタイトル「絶望」の意味なのかと最初は思い絶望する。
しかし、宮台は一貫して同じようなことを語り続けている。
宮台は「外部世界」と「内部世界」、「規定された内側」、「規定されていない外部」
などというワードを使って語り続ける。
要するに、ど真ん中ストライクの人々には感じられない
マイノリティがゆえのココロの叫びを認める。
そのマイノリティの人たちの立つ場所が揺れ動きそれが表現を生み、
作品を豊かにすることを認める。
宮台のその考え方に対する立ち位置は揺れ動かない。
その感覚が好きか、そうでないかという意見はあるだろう。
あと神話的形式という言葉が頻出する。
僕はその形式が勉強不足でよくわかっていないのだが、
ここにも何か宮台の考え方を解き明かす鍵があるのかも知れない。
なかなか手強い書物である。
僕の解釈も、いまいち、自信がない。
誰か教えてくださーい。